知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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木村敏の共通感覚論


共通感覚は、すでにアリストテレスが取り上げているほどだから、哲学上の古いテーマであったわけだが、その割に論じられることは少なかった。近世になると、デカルトが常識との関連で論じ、またヴィーコが人間の判断との関連で論じたが、哲学上の主要テーマとなるには至らなかった。これが主要なテーマとなったのは、哲学ではなく、精神病理学の分野においてだった。1970年代に盛んになった現象学的精神病理学において、共通感覚が、心の異常を解く鍵を握るものとして、俄かに注目を浴びたのである。日本においてその議論をリードしたのが、木村敏だった。哲学上の共通感覚論といえば、日本では中村雄二郎の議論が有名だが、それは木村敏の議論に触発されたといってもよい。

共通感覚は、コモンセンスの日本語訳である。コモンセンスといえば、常識という意味もあって、むしろそのほうが世間的には強い流通力をもっている。しかし、コモンセンスの本来の意味は、アリストテレスが議論したような意味合いでの共通感覚、ギリシャ語で言う「コイネー・アイステーシス」のことをさした。それは、個別の感覚である五感に共通するような感覚として、いわば第六感のようなものとして、個別の感覚を相互に結びつけ、それらに生き生きとした働きをもたらすものとして捉えられていた。この意味での共通感覚が、ラテン語のセンスス・コムーニスになると、次第に常識の意味にもちいられるようになった、といえるのである。

木村は、こころの異常を研究するなかで、それを基本的には、共通感覚の病だというように考えるようになった。この場合の共通感覚とは、二重の意味合いで用いられている。ひとつは、世間的な意味での常識である。この意味合いからは、こころの病は常識からの逸脱というように定義される。もう一つの意味合いは、アリストテレスが用いた本来の意味の共通感覚である。この意味合いからは、こころの病は共通感覚の病理ということになる。

この二つの意味合いのうちで、中心になるのは後者の意味合いである。共通感覚がうまく機能しないことから、その患者は普通の人のような行動がとれなくなる、それが普通の人の目には常識からの逸脱として映る、というのが基本的な道筋だといえるからである。

では、木村がこのように位置づけている共通感覚とは、いかなる内実を持っているのか。

木村はアリストテレスの議論を援用しながら共通感覚について論じている。たとえば「甘い」という言葉について。これは本来味覚をあらわす言葉であって、「砂糖は甘い」などと使われる。ところが人は、「甘い音楽」などともいう。音楽は聴覚にかかわるものだから、味覚について使われる「甘い」という言葉はふさわしくないはずである。だが人は、別におかしいとも思わずに、そういう言い方をしている。同じことは、「甘美な情景」のような言葉についても指摘できる。情景は視覚の対象だが、それに甘いという味覚がかかわりあう。

それは、味覚や聴覚や視覚が、互いに無関係でばらばらな感覚ではなく、どこかで深くつながりあっているからではないか、その深いつながりあいがあるために、五感相互の間に係わり合いが生まれ、上記のような表現が不思議でなくなるのではないか、とアリストテレスは、またアリストテレスに依拠する木村は言うわけなのである。

この「深いつながりあい」を可能にしているのが共通感覚の存在だということになるのだが、それは果してどのようなものなのか。

アリストテレスはそれを、個別の感覚に共通する第三の(あるいは第六の)感覚だといっているだけで、それが具体的でどのようなものかについては、詳しく論じていない。ただ、この第三の感覚が働くおかげで、甘い音楽とか甘美な情景とかが、感知される、というだけである。

木村は、これを、構想力というものを媒介させることで説明しようとした。木村の構想力論は、カントの構想力論に依拠したものである。カントは、人間の悟性的認識は、現象的な所与が人間の先験的な認識枠組に当てはめられることによって成立するというふうに考えたわけだが、生の与件としての現象的所与が、人間の先験的認識枠組に当てはめられるに際して、この構想力が働く。逆に言うと、構想力があるために、現象が人間にとって認識可能なものになる。なぜなら、構想力は現象的所与にも、人間の認識枠組にも関わりをもつ。つまり両者に共通する働きとしての性格を持つ。それ故にこそ、人間はこの構想力の働きによって、対象を概念的に認識することができるのである、とカントは考えたわけである。

木村は、カントのこの議論を援用して、ばらばらの感覚に与えられた現象的な所与について、それを知覚として把握するプロセスに、この構想力が働いているとする一方、個々の感覚相互の間に、深い係わり合いを持たせるのも、この構想力だと考えた。構想力はだから、人間の世界把握の基本のところで働いているわけである。

このように構想力を定義した上で、木村はこころの病を、構想力の病理と規定するわけである。構想力が働かないと、個々の感覚はばらばらになったままで、意味のある感触にはならないし、したがって対象を統一した相のもとに把握することができない。たんに、対象が統一した像を結ばないにとどまらない、構想力が自分自身について働かないと、自分自身が自己同一のものとして統一した像を結ぶこともできなくなる。そうすると離人症に陥ったり、妄想にとらわれたりする。離人症というのは、自分が自分自身として確固としたイメージを結ばないという事態だし、妄想は、感覚の対象が、意味のある連関から抜け出て、てんでんばらばらな存在感を主張する事態である。両者ともだから、構想力の病理がもたらす事態だといってよい。

この構想力が備わっているために、人間は対象的な所与を意味あるものとして把握することができるのであるし、また、自分自身について、自己同一的なものとして自覚することができる。構想力が働かなくなるという事態は、対象を意味のあるものとして把握することができなくなるとともに、自分自身をも主体的な存在として実感することもできなくなる事態を意味している。そういう意味で、主体性の病であると言い換えることもできる。そう木村は考えるわけなのである。

構想力の議論は、カントにあっては、あくまでも人間の認識作用にかかわる概念についてのものである。しかし、木村にとっては、それは認識にだけかかわることがらではない。人間の生き方そのものにかかわる問題である。人間は、世界内存在として、構想力を働かせながら世界と実践的に係わり合っている。認識はその係り合いのひとつの相であるに過ぎないのだ。だから、構想力を病むというのは、ある意味、生き方そのものが危機に瀕している事態なのだといっても良い。




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