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時間と狂気:木村敏の精神病理学


精神分裂病(統合失調症)、うつ病、癲癇は、精神疾患の三つの典型例とされてきた。これらの疾患の基本的な病因は、現在では脳の働きの異常であるとするのが主流的見解となり、したがって治療方法も薬物投与による脳の働きのコントロールが中心になってきつつある。これに対して、精神病理学者の木村敏は、単に脳の働きの異常に注目するのではなく、患者の生活史に光をあてる必要があると主張した。人間というものは、さまざまな経験を通じて、自己を作り上げていくものである。自己というものは、無条件な前提としてそこに存在するものではなく、作られるものなのである。だから、作られる過程が大きな問題となる。なぜなら、すべての自己が、望まれた鋳型にしたがって、順調に作り上げられるとは限らないからである。精神疾患として我々がイメージしているのは、この望まれた鋳型からはみ出てしまい、したがって通常の人間の自己とは異なったあり方を呈するに至ったものなのである。

自己は、どのようなプロセスを通じて作られていくのか。また、どのような事情が働くと、精神疾患の症状を呈するようになるのか。木村は、それを分析する鍵を「時間」に求めた。木村によれば、時間というものは、人間にとって外在的な条件であったり、したがって、単なる認知の対象であったりするわけではない。時間とは、人間が生きていることそのことの、本質的なあり方なのだ。人間が生きているということ、そのことが時間そのものなのだ。木村は、ミンコフスキーの「生きられる時間」という概念を引用しながら、時間というものは、人間がそれを生きるものであると強調しつつ、なおかつ、時間とは生きられる「もの」ではなく、生きることそれ自体なのだと、時間のもつ「こと」的な性格を強調するのだが、それは、時間が人間の生き方そのものなのだということを主張したいがためなのである。

人間は常に、いまという時間を生きている。それは、瞬間という言葉でイメージされるようなものではなく、ある程度の幅というか、ふくらみを持っている。そのふくらみの延長として、過去とつながり、未来へと開かれているわけである。人間は、過去に生きてきたその積み重ねとして、いま現にある自分の「自己」を作り上げてきたのであり、またその「自己」をばねにして未来に向かって飛躍していく。

ところが、この時間の流れが、何らかの事情で撹乱されるケースが生じうる。過去の積み重ねとしての自己が、自明で安定したものでありえないために、いまが堅固な基盤を持ちえず、過去も過去としての意味を持ち得ないようなケースがある。また、過去があまりにも大きな比重を占めているために、現在が相対的に軽くなり、未来については考える余裕をもたないといったケースもある。あるいは、過去も未来もまったく意味をもたず、いまだけが突出するというケースもある。この三つのケースについて木村は、それぞれ、分裂病、うつ病、癲癇と関連付けて論じるのである。

木村によれば、分裂病患者は過去に意味を見出せない。なぜなら、彼の過去は自明な自己の形成に失敗したからだ。また、現在も意味を持たない。なぜなら、現在を生きる自己が自己の自明性を感じられないようなもの、よそよそしいものだからだ。したがって、彼にとって意味があるのは未来だけである。彼は、未来に賭けることによって、そこに新しい自己の形成を期待する。「分裂病者はいつも未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている」(木村「時間と自己」)

この未来を先取りしたような状態を木村は「アンテ・フェストゥム」という言葉で表現している。祭を前にした精神の高揚を表現した言葉だ。分裂病者が期待する祭とは、明確なイメージを持ったものというよりは、アモルフな興奮に包まれたものであろう。それは未知なるものとしての未来、明確な輪郭は持たないが、何かしら興奮をそそるような、期待に満ちたものであるということができる。

うつ病者の場合には、これとは逆に、過去の持つ比重が余りにも重い。何故そうなのかは、明確にはしていないが、木村は、うつ病の本質を過去にこだわる点だとすることで、うつ病者の行動の特徴がよく説明できるという。うつ病者の行動の最大の特徴は、秩序へのこだわりであり、その秩序が失われたと感じたときの深い罪責感である。うつ病者の発する言葉のもっとも典型的なものは、「とりかえしのつかないことをした」、あるいは「取り返しのつかないことになった」というものだが、これは秩序の崩壊に対する強い罪責感をあらわしたものと考えることができるのである。

この、うつ病者の過去へのこだわりを木村は「ポスト・フェストゥム」という言葉で表現している。「あとの祭り」という意味である。取り返しのつかないことが起きてしまったが、それはもうどうすることもできない、「あとの祭り」だ、といううつ病者の思いがこもっている言葉だといえる。

分裂病とうつ病とが、それぞれ水平軸としての過去と未来にかかわっているのに対して、癲癇の場合には、過去や未来へのつながりはない。癲癇者は、それこそ瞬間としてのいまのなかで、燃え尽きようとする。

この燃え尽きようとする状態を木村は「イントラ・フェストゥム」という言葉で表現している。「祭りの真っ最中」という意味である。祭りの真っ最中にあることで、癲癇者にはどのような事態が生じているか。木村はそれを、「日常性を保証する理性的認識の座としての意識の解体」(同上)といっているが、何故そのような解体が起こるのか、そこまでは説明できていない。

以上、木村は精神病の三つの典型的な病態について、それらを「時間」の概念を鍵にして解こうとする。分裂病は未来の先取りであり、うつ病は過去へのこだわりであり、癲癇は現在への埋没である、というわけである。これはこれで面白い発想だと思う。こんな発想をしたのは、木村が始めてだろう。しかし、だから何なのだ、という批判は出るだろう。木村によれば時間とは、人間の生き方そのことであった。ところで、精神病は、普通の人間の生き方とは異なった生き方をするようになった人間についての、ひとつの判断のようなものである(と木村は言っている)。普通の人間と異なる生き方をしている人間が、普通の人間とは異なる時間感覚を持つのは、ある意味当然のことではないか。なぜなら、時間とは人間の生き方とイコールなものとされているからだ。そんな批判が出てきそうだが、それはそれで、堂々巡りの議論に陥りかねない面をもっているようだ。




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