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直線的時間と円環的時間:中井久夫の時間論


精神医学者中井久夫の「分裂病と人類」を読んでいたら、人類の歴史で時間観念が登場したのは、農耕文化の段階になってからだという記述にぶつかった。中井は、人類の歴史は狩猟採集の段階から農耕の段階に進んでいったと考えているのだが、狩猟採集の段階では、時間の観念はまだ成立していなかった、時間の観念が成立するのは農耕文化の段階以降のことだと言うのである。

もっとも中井は、狩猟採集段階の人類に、時間概念が全面的に欠落していたとは言っていない。欠落していたのは、われわれ現代人が当然のこととして理解しているような意味での時間概念である。それを中井は、クロノスとしての時間だといっている。クロノスとは、現在を中心にして、過去から未来へと直線的に流れていく時の流れのことをいう。それに対して、現在という瞬間にこだわった時間意識もないわけではない。それは、現在を中心にして、未来には開かれている。しかし、過去を含んでいないという点で、普通の意味での時間概念にはなりえていない。そのような時間を中井はカイロスという。

「狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとすれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。農耕社会は計量し測定し貯蔵する。とくに貯蔵、このフロイト的にいえば『肛門的』な行為が農耕社会の成立に不可欠なことはいうまでもないが、貯蔵品は過去から未来へと流れるタイプの時間の具体化物である。その維持をはじめ、農耕の諸局面は恒久的な権力装置を前提とする。おそらく神をも必要とするだろう」(中井「分裂病と人類」)

ここで中井が、「過去から未来へと流れるタイプの時間」といっているのは、直線的な時間、リニアな時間と言ってよい。そのような時間が成立するためには、時間が決定的に重要な意味を持つ事態、すなわち農耕の普及が必要だったと言うわけである。農耕とは端的に言えば、時間の管理なのである。

ところで、時間にはこのような「直線的な時間」のほかに「円環的な時間」があるというのが、今日の常識となっている。直線的な時間が、過去から現在を経て未来へと直線的に流れていくとイメージされているのに対して、円環的な時間は、時間の動きを直線ではなく循環としてとらえる。直線的な時間にあっては、未来は常にあらたなものの生起としてとして捉えられるが、円環的=循環的時間にあっては、未来は過去の繰り返しとして捉えられる。つまり、この世の中には、何も新しいことなどはおこらない。すべては、同じことの繰返しとして現れる。

現代の俗流時間論は、直線的時間観念をキリスト教的世界観と結びつけ、円環的時間観念を仏教やゾロアスター教など東洋的世界観と結びつける。また、直線的時間観念を狩猟・牧畜分化と、円環的時間観念を農耕文化と結びつける傾向が強い。そこで、キリスト教的世界観=直線的時間=狩猟・牧畜分化対東洋的世界観=円環的時間=農耕文化という概念のセットが出来上がる。

この俗流時間論を中井の時間論と対比させると、そこに大きなずれがあることがわかる。まず、中井は時間をリニアな(直線的な)ものとしたうえで、それを農耕文化と結びつけるわけだが、俗流時間論は、農耕文化と結びつくのは円環的な時間であって、リニアな時間は狩猟・牧畜分化と結びつくと見ている。

これには、時間の捉え方の相違が大きく働いているのだと思える。中井は、時間をリニアなものとのみ考えて、円環的な時間というものを考慮にいれていない。ところが俗流時間論にあっては、直線的な時間と円環的な時間の対立こそが、時間論の中心テーマとなる。中井は時間を大雑把に時の流れとして捉えるにとどまるのに対して、俗流時間論は、時間内部の分化に注目するわけなのである。

そこで、直線的な時間と円環的な時間では、どちらが本源的な時間なのか、という問題がひとつのテーマとしてありうるということになる。俗流時間論者の多くは、直線的時間をキリスト教文化と密接に関連付けて論じたうえで、その対抗軸として円環的時間を持ち出すケースが多い。であるから、このような文脈においては、円環的時間は直線的時間を批判するための対立軸として利用されることとなる。

こうしたシナリオにとって都合の良いのが、ニーチェの時間論だ。周知のとおりニーチェは、キリスト教的な直線的時間概念を粉砕して、それに代えるに循環的な時間概念を以てした。彼のいう「永遠回帰」とは、時間の円環的=循環的性格を現した言葉なのである。

キリスト教的時間観念の最大の特徴は、時間を有限なものとして捉えることである。時間には始まりがあり、かつ終わりがある。時間はそれ自体では有限である。無限なのは神だけである。無限な神が有限な時間を作り、それをある一定の時刻で終わらせる、と考えるわけである。それに対してニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもない。時間は永遠に循環する。循環するある局面をとってみれば、それは円環として見える。円環は、すべてがそこから始まるスタート地点であり、またそこに戻ってくるゴールである地点を、同時にしかも至る所に内在させている。しかも、永遠に循環運動を続けていく。なぜなら、この世に神というものは存在しないのであるから、この世そのものが永遠でなければならないではないか。もし、この世が永遠でなく、有限なものとすれば、それに始まりのきっかけを与え、それを終わらせるものがなくてはならない。そんなことができる者は神以外には考えられない。だが、神は死んだのだ。そうニーチェは強調するわけである。




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