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エラスムスとヨーロッパの滑稽文学 |
エラスムス Desiderius Erasmus (1467-1536) は、北欧ルネッサンスを代表するヒューマニスト(人文主義者)として、カトリック教会の堕落を告発し、ルターら宗教改革運動とも交流のあった人物として知られている。その著作「痴愚神礼賛」は、腐敗停滞した当時の社会を弾劾したものとして、ことのほかエラスムスの名を高めた作品である。 「痴愚神礼賛」は、痴愚神という架空の女神が、自分の力を自画自賛するという体裁をとっている。自分の力というのは、文字通り人間に愚かなことをさせる力である。芸術家が美の女神の保護を受けるように、人間どものありとあらゆる愚行は自分の賜物だというのである。 人間の愚行には数限りないものがあるから、痴愚神は自分の手柄を吹聴する種に欠くことがない。次から次へと人間どものしでかす愚行を数え上げては悦に入るのであるが、その愚行というものが、今日の我々には、エラスムスが生きた時代における、社会のばかばかしさ加減をあぶりだすことともなっている。 だからこの作品は、壮大な風刺文学として、永らく受け止められてきた。風刺の対象は主に、カトリック社会である。エラスムスがこの作品を書いたのは16世紀初頭であり、カトリック社会の腐敗が深刻化する一方、ルターらの宗教改革運動がうねりを持ち始めていた。エラスムス自身は生涯カトリック教徒として、ルターらの宗教改革運動には批判的であったが、このままではカトリックそのものが挫折しかねないという危機感を持っていた。そこでいわば内部告発のようなつもりでこの作品を書いたのだと、そう受け取られてきたのである。 このようなフィルターを通してこの作品を読むと、なるほどスパイスの効いたパンチ力のある風刺がいたるところに躍動しているのに感心させられる。風刺文学として、これ以上に気の利いた作品は見当たらないであろう。 こんなステロタイプ的な見方を脱して、エラスムスの文学を、中世・ルネッサンスを通ずるヨーロッパの滑稽文学の流れの中に捉えなおした者がいる。ドストエフスキーやラブレーに関するユニークな研究を残したミハイル・バフチーンである。 バフチーンはフランソア・ラブレーの作品を読み解くことを通じて、そこに流れている中世・ルネッサンスを通じてのヨーロッパの笑いの伝統というものを抉り出した。その伝統とは、一つには民衆の文化の底を流れるカーニバルの笑いであり、二つには知識人の間に育まれてきたカーニバル的なパロディであった。これらに通ずるのは、風刺としての笑いではなく、共同体の成員がこぞって腹の底から笑いあう笑いであり、笑いそのものが自己目的化したような無条件の笑いであった。 笑いというものはすさまじいエネルギーをもっている。笑いは人間の行いをすべて相対化し、秩序や慣習、身分の相違といったものをひっくり返すことによって、何もかもを混沌のうちに飲み込み、そこから新たなものを生み出すことによって、人間に生きる力をもたらす。 エラスムスの作品にあふれているのは、こうした笑いなのである。それは風刺といった狭い目的のためだけに発動されるのではなく、いわば笑うこと自体が目的化している。エラスムスの文学は風刺ではなく、笑いの文学なのである。 こうしたエラスムスの笑いを、バフチーンは中世・ルネッサンスの滑稽文学の中に位置づけている。これはパロディ文学として脈々たる伝統を有するものであり、シェイクスピアやセルバンテスも、またドイツの「阿呆文学」やハンス・ザックス、グリンメルハウゼンといった人々にも受け継がれた。ひとことでいうと、民衆のカーニバルの笑いをカーニバル外の生活のパロディとして描いたものだ。そこに描かれたのは「裏返しの世界」であり、理屈なしに人に腹を抱えさせる哄笑としての笑いであった。 エラスムスは「痴愚神礼賛」をラテン語で書いた。また「痴愚神礼賛」同様笑いに満ち、その内容があまりにも冒涜的というので発禁処分にもなった「対話集」もラテン語で書いている。このことについては、さまざまな憶説が流れた。だが中世を通ずる滑稽文学はすべてラテン語で書かれてきたのであり。エラスムスもその伝統に従ったのであろう。 バフチーンは、ヨーロッパ中世を通じて、教会の礼拝や教理についておびただしいパロディが作られていたことを紹介している。そのなかには「酒飲みの典礼」、「賭博者の典礼」といったものから、「主の祈りのパロディ」、「アベ・マリアのパロディ」といったものがあり、また「豚の遺言書」や「墓碑銘のパロディ」といった様々なパロディ文学が含まれていた。いづれも冒涜の言葉を笑いに包んだものだったが、それらは民衆の息抜きとして、カトリック教会から大目に見られていた。 ともあれ、ラテン語で書かれた書物でも発禁となったのであるから、当時はまだ生きた言語として立派に流通していたと思われるのである。 エラスムスは宗教改革とも一定のかかわりをもったと理解されている。たしかに前半生においてはルターとも交流があったが、しかしルターの運動が過激化するのに伴い次第に遠ざかったというのが事実である。彼自身は死ぬまでカトリック教徒として生きた。 ルターを始めとした新教の運動には、笑いを抹殺するような息苦しさがあった。それは共同体の成員が理屈なしに腹を抱えて笑いあうような文化に変えて、個々人が直接神に向き合うことを求めるものであった。 エラスムスはこうした新教の息苦しさに耐え切れないものを感じていたに違いない。腐敗堕落したとはいえ、カトリックはヨーロッパの中世・ルネッサンス時代を超えて流れ続けてきた、おおらかな人間の笑いに寛容であった。エラスムスはそこに救いを求めたのだろうと思われるのである |
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