知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ルターと宗教改革


マルティン・ルター Martin Luther (1483-1546) が始めた宗教改革は、ヨーロッパの精神史上において、巨大な(歴史的文化的)意義を持つ出来事だった。影響の範囲からすればルネサンスの比ではない。ルネサンスが一部の知識人を中心としたサークル的な運動にとどまったのに対し、宗教改革は広範な民衆を巻き込み、巨大なうねりとなって社会を変えていった。特に北部ヨーロッパにおいては、宗教改革は、社会や政治のあり方、経済活動の変動とも密接に結びついているのである。

これを巨視的に見れば、宗教改革は、中世的な世界が解体され、近代社会が形成されてくる過程において、それを精神な面から推進する役割を果たしたのだということができる。

長い中世を通じて、人々は共同体の中に埋没して暮らしてきた。そこでは一人ひとりの人間は共同体の一員として意識され、一人の自立した個人として意識されることはなかった。共同体は生産から家族のあり方に至るまで、社会生活のあらゆる部分に介入し、ひとびとはそれに自分を預けることによって、人間として生きていくための保障を求めていた。カトリックの教会組織は、このような共同体秩序の主催者として、それを精神的に支える一方、そこから自己の力を引き出していたのである。

ルターの行ったことの意義は、こうした共同体的なあり方に一撃をくらわし、その土台を揺るがすことによって、近代社会の幕開けに力を貸したことにある。つまり、既成の教会秩序をひっくり返すことによって、共同体組織の精神的な支柱を壊す一方、人々を教会を通じてではなく直接神と向き合わせることによって、共同体から離れた自立した個人というものを作り出すきっかけを与えたのである。

だがルター自身の主観の中には、そのような問題意識が明確にあったわけではない。彼が神の義を問題とし、個人の神への信仰にこだわるようになったのは、あくまでも自分の信仰を確立するためという個人的な関心からであったし、後にカトリック教会と正面から対立するのも、それが自分の信仰と相容れないと感じたからであった。ルター自身は近代的な人間というより、むしろ中世的な部分を多くひきずっていたのであり、それが皮肉にも中世的な世界の解体につながっていったのは、時代の流れに棹差したことによるところが大きい。

それでもルターのなしたことは、ルターの主観的な思惑を超えて、大きな社会変動をもたらした。そこに生じたドラマは、歴史と個人の係わりを考える際に、格好のサンプルを提供する。

ルターはアウグスティヌス派の修道僧として出発した。彼の思想に残存する中世的な要素はこうした経歴に根を持っていると考えられる。その後ヴィッテンブルク大学で神学を学び、自らも神学を教えるようになった。彼の初期の神学思想はオッカムの説を土台にしていた。

ルターは気質的にアウグスティヌスと似たところがあったようで、己の信仰について常に迷いを抱いていた。既成のカトリックの教えからは、真の信仰と魂の安らぎを得ることが出来なかった。そんなルターがたどり着いた信仰の中身とは次のようなものであった。

まず、人は「善き行い」によって「罪深き人」から「正しき人」へと変貌し、神に召されるわけではない。正しき行いも「信仰」を伴っていなければ空しいものに過ぎない。人は心からの「信仰」によって始めて「正しき人」となるのである。

これは当時のカトリック教義とは著しく異なった主張であった。カトリックによれば、人はよき行いによって神に嘉されるのであり、その行いとは教会への布施を含む施しであり、外面的な善行でもありえた。ルターはこれらをことごとく否定することで、信仰を個人の内面の問題としたのである。

信仰が個人の内面の問題とされた結果、カトリック教会や聖職者の意義が軽く扱われるようになった。カトリックの教義によれば、聖職者は特別な人々なのであり、それ自体が神に近い存在だとされていた。これに対してルターは、聖職者といえども正しい信仰を伴わなければ何の意味もない存在だとした。こうしてカトリック教会側と激しく対立するようになる。

次に、人間の信仰上の自由意志というものをルターは認めなかった。人間が自分の自由意志に基づいて信仰を選ぶとするのは、キリストに対する侮辱である。キリストの死は、自由意志にしたがって蒙ったものではなく、神がキリストに与えた宿命なのである。キリストの十字架は神の恩寵の現われなのであり、人間はそれをただ信仰することによってしか、救いを得ることが出来ない。

このようにルターは、人間の救いの源泉を、人間の自由な意思に基づかせず、神による一方的で理由のない選択に帰している。人間が救われるのは、自分自身の行いを通じてではなく、神の選択に基づく。この考えは「予定説」とも呼ばれている。

こうしたルターの考えは、カトリック教会にとっては我慢がならないものであった。そこからカトリックとルター派との全面的な対立が始まり、やがてその中からプロテスタントと呼ばれる新教の勢力が形を整えていくのである。





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