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夜の果ての旅:セリーヌを読む


ルイ=フェルディナン・セリーヌは、日本語での翻訳もあるが、あまり読まれているとは言えない。彼の母国フランスでも、いまでは忘れられた作家になっているらしい。だから小生も、彼の名前ですら知らなかった。はじめて彼の名前に接したのは、近年読んだ大江健三郎の小説「さようなら私の本よ」を通じてだった。その小説の中で大江は、セリーヌを現代フランス文学の異端の大家のように描いていたものだ。その評価の仕方に面白いものを感じたので、小生はセリーヌの作品を読んでみようという気になったのだった。

まず手にしたのは、かれの処女作である「夜の果ての旅」(生田耕作訳、中公文庫版)。この作品は1932年、かれが36歳のときのものだ。発表されるや大変な評判になった。サルトルやボーヴォワールといった、当時新進気鋭の思想家たちが大いに入れ込んだという。そこでこの小説は、フランスの実存主義に影響を与えたとも、また実存主義文学の先駆的作品とも言われたことがあるらしい。そんなこともあって、実存主義の流行に左右されるところがあって、実存主義が読まれなくなると、この小説、というかセリーヌの作品全体が読まれなくなっていった、というような説明もあるようだ。

だが、セリーヌが読まれなくなったについては、別の理由も指摘されている。一つはかれの反ユダヤ的な言動と、それに関連したドイツ贔屓が、戦後厳しく批判されて、国賊扱いされたことだ。かれはそのために犯罪者扱いされ、国外に逃亡するハメに追いやられた。そんなこともあって、戦後長い間、黙殺されたというのである。これは文学的な理由ではなく、かなり政治的で、したがって世俗的な理由というべきなのだが、それでもフランスのような国柄にあっては、文学者として黙殺されるには十分な理由だったのだろう。

反ユダヤ主義とかドイツ贔屓を思わせるものは、「夜の果ての旅」には全くと言ってよいほど出てこない。ユダヤ人への言及は全くないし、ドイツ人も出てこない。だからそういう要素を理由にしてこの小説を批判することはお門違いと言ってよいのだが、セリーヌという人間へのフランス人の全面的嫌悪感が、この小説の価値まで貶めているのだろう。

この小説は、一応、セリーヌの自伝的作品と言われている。セリーヌはペンネームで、本姓はデトゥシュというから、デトゥシュにとっての自伝的物語というわけだ。デトゥシュは、第一次大戦に兵役志願した経験があり、また医師免許を取得して医師として活動したことがある。そういう自伝的な要素がこの作品にそのまま取り入れられている。この作品にはまた、アフリカとかアメリカでの放浪といった話も出て来るが、それも実際の体験だったのか、小生にはよくわからない。

自伝云々を別にすれば、この小説が描写し、読者に向って訴えかけているのは、現代ヨーロッパ文明への懐疑であり、人間とりわけヨーロッパ人種への嫌悪感ではないか。現代ヨーロッパ文明への懐疑は、戦争を通じて互いに殺しあう国家レベルのいがみ合いとか、異人種つまり黒人に対する滑稽なほどの優越感への違和感としてあらわれている。また人間への嫌悪感は、自分を含めてあらゆる人間を信頼できず、むしろ軽蔑と反感しか感じられないといったことにあらわされる。この小説の主人公であり語り手であるフェルディナン(セリーヌの本名の一部である)にとって、世界は鼻持ちならぬものなのであり、そこに生きているということが、何らの生きがいを感じさせないばかりか、生きること自体が馬鹿らしく思えるほど、無意味なことなのである。この小説のキャッチフレーズは、この世界は生きるに値しないということだ。

それでも人間は生きていくほかはない。フェルディナンは、生きることは無意味だといつも愚痴をこぼさずにはいられないのだが、生きていなくては、愚痴をこぼすこともできない。その生きることの無意味さについての自覚、存在の耐えられないほどの没価値性、そういった要素がこの小説を、実存主義と深くかかわらせることになったのだろう。実存主義の特徴を一言でいえば、実存は存在に先立つ、ということになるが、それはまず実存があって、それにもとづいて意味が生まれる、ということだった。実存すること自体は、意味とは無縁の事柄なのである。意味は実存のあとから追加されるものなのだ。

この小説がもたらしたインパクトの一つとして、文体の新しさが指摘される。この小説は、主人公による独白という形をとっており、したがって主観的で情緒的な雰囲気が濃厚なのだが、その情緒的な側面が極度に強調されているために、それを聞かされる読者は、異様な興奮を味わされるのである。その辺は、翻訳された文章からはストレートには伝わってこないのだろうが、生田耕作による日本語は、原文のもっているらしい切迫した調子を、なるべくリアルに再現しようとしているように感じられる。たとえば、句読点の打ちかたをわざと間延びさせたり、同じ言葉を不必要に繰り返したりといったところだ。

ともあれこの小説は、セリーヌの一人の人間としての生き方を、かなりな程度正直に反映していると受け取られているらしい。小説が作家と不可分なものになっているわけだ。あるいは小説は作家の内面世界をそのまま表現していると受け取られている。それが本当だとしたら、セリーヌは不幸な作家だったというべきだろう。文学作品というものは、それを生み出した作家とは別の存在である。作家は文学作品の中に、自分固有の思想とは異なった思想を盛り込むこともできるし、世界に対する自分のかかわりを逆説的なかたちで表現することもできる。作品が自分の内面をそのまま反映しているようでは、作家は作品から自由にはなれない。読者からそう思われることは、作家にとっては致命的なことなのだ。



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