知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カフカ「火夫」


「火夫」は長編小説「アメリカ」の冒頭の部分であるが、カフカは生前にこれを独立した短編小説として発表している。そこにどのような意図があったのか、とりあえずわからない。もともと「アメリカ」の一部として書いたものを、別途独立して発表したのか、それとも「火夫」という短編小説を書いた後で、その続編を書く気になって、それが長編小説の構想につながったのか。日記等を分析すれば、その辺の事情がわかるかもしれないが、今の筆者にはわからないままだ。

「火夫」を読んで感じることはいくつかある。もしこれが独立した小説だとすれば、じつにまとまりがないということがひとつ。まとまりがないということは、話として完結していないということだ。カフカの小説には、未完結のものが多いので、これもその一例だと割り切れないでもないが、それにしても中途半端なままに終わっている。だから、これをはじめて読んだ100年前の読者は、未消化な感じを抱かされただろう。

この小説がはじめから「アメリカ」の一部として構想されたとすれば、この小説と「アメリカ」本体との有機的な関連が問題になるが、その有機的な関連が見当たらないのだ。「火夫」で書かれた話は、「アメリカ」全体の話の流れと必ずしも密接な関係がない。まず、題名にもなった火夫は、この部分で出てくるだけで、その後は姿をあらわさない。もっともこれについても、「アメリカ」本体が、かならずしも脈絡があるとはいえないいくつかの話を寄せ集めたもので、全体として一本筋の通った構想によって導かれていると言えないのではあるが。

この小説は、少なくとも現在ある形では、「アメリカ」の導入部なのであるから、当然主人公のプロフィールみたいなものが書かれていることを、読者は期待する。その期待は、少しは応えられている。主人公のカール・ロスマンは、もともとドイツ語圏の国で暮していたが、十六歳のときに両親に勘当され、アメリカへ追っ払われたということになっている。小説は、そのロスマンがアメリカに向かう船の中の描写から始まるのだ。火夫というのは、この船の乗組員なのである。

カールが勘当された理由は、女中に誘惑された挙句、子どもができてしまったことだ。その女は、「自分を裸にしてくれるように相手にねだりながら、実際は彼の方を裸にして、自分のベッドへ寝かせた。まるでもう、いまから彼のことはほかの誰にも任せたくない、この世のかぎり、この自分が愛撫してやり、みんな世話をみてやるのだ、といいたいような気の入れ方だ」(中井正文訳、以下同じ)と書かれているが、その彼女が、アメリカにいるカールの叔父に、自分とカールとの関係やら、カールがアメリカについたら是非面倒を見て欲しいといったことを手紙で書いたために、その叔父というのが、カールを迎えに船の上までやって来たというわけなのだ。

その後、その叔父とカールとの話が続くことになるが、カールを誘惑した女中も、船の中でカールと仲良くなった火夫も、姿をあらわさなくなる。そのかわり、別の女たちが現われ、カールに対して保護者的な態度をとったり、また抑圧的な態度をとったりする。筆者は、「アメリカ」という小説は、基本的には少年のイニシエーションの物語だと前回書いたが、そのイニシエーションの大部分を、この小説では女たちが誘導するというわけなのだ。実際、この小説の中で、カールの成長に決定的な影響を与えるのは、女たちなのだ。それゆえ、この小説は女たちが男を鍛える話だといってもよい。

女たちに比べると、男たちの影は薄い。カールの叔父は、船からカールを引き取って自分のもとで修行させるが、わけのわからぬことがきっかけで、カールを追放してしまう。本来なら保護的な立場にあるべき叔父が、その責任をあっさりと放棄してしまうわけだ。叔父に追放された後で、カールは与太者の二人組と行動をともにするようになるが、これが全く与太者然として、人間として自立していない。カールよりは年上だが、年長者としてカールの模範になるどころか、カールを食い物にするばかりである。そんなわけで少年のイニシエーションどころか、少年を堕落させる存在として描かれている。ひとり火夫だけは誠実らしい人間として描かれているが、なにぶん彼は身分が低すぎて、ものの数にも入らない男である。だがこの男と一緒にいるとカールは心が休まる気持になるのだ。

船がニューヨークへついて上陸する段になった後で、カールは傘を船底の船室に置き忘れたことに気付いて取りに向かう途中この火夫と出会うのだが、どういうわけか、その火夫の船室のベッドに横たわる。すると、「彼はもう自分が不案内な船の底にいて、しかも、その汽船は未知の大陸の岸壁に着いているんだ、という感じがほとんどしなくなった。それほど火夫のこのベッドは居心地がよかった」

このように、連続した出来事の合間に、カールが、息抜きをするように寝たり休んだりするシーンは沢山出てくる。カールを休ませることで、もつれた糸をとりあえず解いてみるように、読者にうながすような、いわばカフカのサービス精神の現われと言ってもよい。

この火夫は、仕事上の不満をもっていて、この船を下りるつもりでいる。そこで、ひとつには自分の後釜としてカールを紹介してやろうと親切心を起す一方、自分の上役である機関長への不満を、船長にぶつけようとしている。この「火夫」の後半部分は、火夫の機関長への繰言を中心に展開するのだ。そこから「火夫」という題名がついたわけであろう。




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