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ディストピアとしての官僚制社会:カフカ「審判」


筆者は先に、「審判」でカフカが描いたのは、同時代のヨーロッパに現われた息苦しい官僚制社会ではないかと言った。もしこの小説が、「変身」と同じように、主人公の身に起こったごく個人的な出来事を描いただけならば、多くの批評家たちが口を揃えて言うように、気味の悪い不条理小説ということになるのだろうが、この小説の中で不条理な目に会っているのは、主人公だけではない。主題化され前景化してはいないけれど、他に夥しい数の人々が、主人公のヨーゼフ・Kと全く同じ境遇に陥っている。しかも彼らには、彼らを訴追したものがある。それは当面は裁判所ということになっているが、要するに官僚制という形をとった権力機構である。その権力機構が、国民の一人ひとりを、大した根拠もなく抑圧する、そういう基本的な構図が、この小説からは読み取れる。そうした抑圧の支配する社会は、ディストピアと言ってもよいから、この小説はディストピアとしての官僚制社会の恐ろしさを描いたものだ、と言えるわけである。

ディストピアとしての官僚制社会というと、オーウェルの「1984」の世界が思い浮かぶ。オーウェルの「1984」は、直接的にはソ連のスターリン主義体制をモデルとしており、それにナチスやイタリアのファシズムを絡ませているわけだが、カフカが「審判」を書いたときには、そうした生きたモデルは存在していなかった。だから、オーウェルのように、抑圧的な全体主義体制としての官僚制をシステマティックには描いていない。ようやく目の前に現われつつある、抑圧的な社会のあり方を敏感に感じ取ったカフカが、それをなるべく生き生きとして描いてみようと試みた、ということではないか。

官僚制社会と言ったが、この官僚制についても、カフカの時代にどれだけ人々の意識に上っていたかというと、ほとんど意識されていなかったのではないか。マックス・ウェーバーの官僚制研究はウェーバー晩年の1910年代になされており、これが刊行されて人々の注目を集めるようになるのは、20年代以降のことだ。したがって、カフカが「審判」を執筆していた時期(1910年代後半)には、官僚制という概念も確立されていなかったし、ましてや官僚制を地盤とするディストピアとしての全体主義社会も存在してはいなかった。そうした時代状況において、カフカは、今日の我々の眼から見れば、ディストピアとしての官僚制社会の恐ろしさに気付き、それを小説のなかで展開した、と言えるのではないか。そういう意味ではこの小説は、かなり先鋭的な作品といえる。

カフカが「審判」を執筆していた1910年代後半のヨーロッパ社会がどれほど抑圧的であったか、我々現代人にはなかなかイメージできないが、カフカはそれを敏感に感じ取った。その背景には、カフカがユダヤ人だったという事情もあるだろう。社会が不寛容になったり、抑圧的になったりすると、真っ先にその影響を受けるのは、いつもユダヤ人だったという歴史がある。実際、「審判」が書かれたわずか三十年足らずの後に、ナチスによるユダヤ人へのホロコーストが発生しているわけだから、その心理的な地盤となった反ユダヤ感情は、おそらく1910年代のヨーロッパにきざし始めていたのかもしれぬ。それをカフカは敏感に感じ取った、ということは考えられる。

こういうわけでこの「審判」という小説は、社会全体が抑圧的になる中で、その抑圧の対象となりやすい人々を描いたのだと言えなくもない。小説の中では、ユダヤ人についての言及はないが、抑圧の対象にユダヤ人がなりやすいということは、いわずもがなのことであったから、この小説を初めて読んだ人は、ユダヤ人をはじめとしたある種の人々が、社会の全体主義的な雰囲気のなかで、抑圧の対象として選ばれるということを、なんの疑問もなく感じ取ったに違いない。

その抑圧は、社会全体対一個人という形をとる。一個人が社会全体を相手に対等の戦いをすることは不可能だから、これは社会による一個人の排斥ということを意味する。小説の中では、この排斥については、審理の場の法廷にいた人々がすべて同じバッジをつけていることに現われている。ヨーゼフ・Kは、裁判官はじめ法廷に居合わせている人々が、一応法の正義をわきまえていることを前提に自己弁護の演説をぶったりするわけだが、実はその法廷に居合わせた人々はすべて同じ穴の狢であって、Kを罰してやろうという先入見を共有しているのである。そうした人々を前にしては、Kがいくら正義に訴えても無駄である。だいたい罪人を起訴するについては起訴理由というものが不可欠だが、Kの起訴にはそんなものはない。

それでもKは、自分に対する起訴理由を知りたいと思うし、なんとか努力して無罪判決を勝ち取りたいと願う。そのために有能だという弁護士まで雇う。ところがこの弁護士は、Kの弁護に欠かせないことを何もやろうとしない。弁護士といっても、依頼人のために無罪判決を勝ち取ることを目的としておらず、法律の専門家として、裁判の手続きがスムーズにゆくことばかりを考えているのである。つまり、依頼人の代理人ではなく、裁判所を中心とする法的システムの一構成員にすぎない。彼の関心の中心にあるのは、依頼人たる被告の利益というよりも、法システムを体現している官僚機構の利益なのである。といっても、カフカが「審判」を書いたころには、近代的な意味での官僚機構はまだ確立していなかった。独立した権力としての官僚機構というものがあって、それが外側から国民を支配するという構図が現代的な官僚制の特徴だが、そうした構図はまだ確立されていない。だからカフカの描く官僚制的抑圧は、国民と一体化した官僚制が、国家のなかの異分子的な要素を排斥するという形をとる。

そんなわけで、「審判」に登場する人物はほとんど、官僚制の中核である裁判所と、なんらかの形でかかわっている。彼らは、裁判所と一緒になって、国家の異分子たちの排斥に務めるのだ。小説のなかでの、そうした排斥者の典型を、画家の家で出会った少女たちが現している。彼女たちはみな裁判所の手下として、Kの動向に目を光らせるのである。唯一裁判所と縁がなさそうに見えるのはビュルストナー嬢であるが、彼女はそれでもKに対して敵対的にふるまう。国家の異分子とは親しく付き合うわけにはいかないという意思表示が、彼女の行動から伺われるのだ。

弁護士の家の看護婦は、裁判所側の立場に立たされているわけだが、その彼女がKに色目を使う。それは、弁護士の言い分では、彼女が刑事被告人に対して理由もなく同情する傾向があるためだと説明されるのだが、彼女はKに性的関係をせまるだけで、Kに対して実質的に有益なことはなにもしないし、できない。もっとも彼女が出てくる部分(第八章)は、未完成のまま中途半端に終わっているので、カフカが彼女を通じて、何を言おうとしていたのか、はっきりとは言えない。

この小説では、裁判官は買収されやすいというふうに言われている。だからKにも、裁判官を買収して、無罪を勝ち取る可能性がないわけではない、というのだが、このように、裁判官が買収されやすいということは、官僚機構が未熟な証拠である。成熟した官僚機構においては、一人ひとりの官僚は、自分の名前で仕事をするのではなく、役職に応じてするのだし、また、仕事の結果に責任を負わないかわりに、賄賂を要求して仕事の行方に個人的な影響を及ぼそうとも思わない。だから、役人としての裁判官が賄賂に弱いということは、官僚機構としては未熟な証拠なのだ。カフカの時代には、まだ成熟した官僚機構が、とくに彼が生きていたチェコでは確立されていなかったのだろう。それ故、同じく官僚主義的な世界を描いていても、その世界は、オーウェルのようなシステマティックなイメージではなく、牧歌的なイメージを帯びているわけだ。




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