知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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掟の門:カフカ「審判」


「審判」の第九章は、「聖堂にて」というサブタイトルで、ヨーゼフ・Kが聖堂の中で若い聖職者と交わす会話が中心になっている。この章に続く章が最終章であり、そこでいきなりKが死刑執行人に連行され、野原の片隅で刑を執行され、「犬のように」死んでゆくわけであるから、この第九章は、色々な意味で、「審判」という作品を解釈する上での手がかりを秘めているといえる。その手がかりをどのように引き出すかは、読者次第なのであるが。

Kと聖職者の会話は、法の入門書に記されているという一つの寓話をめぐるものである。カフカは生前この寓話の部分だけを切り離して、「掟の門」と題して公開している。その内容は、簡略に言えば、次のようなものだ。掟の前に一人の門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやってきて、掟の中へ入れてくれと頼んだ。門番は、今はだめだといった。男が身をかがめて門の中を覗きこんだところ、そんなに入りたいならわしの禁止にかまわず入るがよい、しかし、わしには力があるから簡単には入らせない、またこの中には第二、第三の門番が控えていて、わしよりもずっと強い。こう言われた男は、門番の気が変わって入れてくれるのを期待して、門番の傍らにすわり続けた。そうして長い年月が過ぎ、男には死ぬ時期が来た。そこで男は門番にたずねた。この長年の間にわたしのほかに誰一人として、ここに入れてくれと言ってこなかったのはどういうわけだ、と。門番は答えた。「ここはお前以外の人間の入れるところではなかったのだ。なぜなら、この門はただお前だけのものと決められていたのだ。さあ、わしも行って、門を閉めることにしよう」と。(辻瑆訳、以下同じ)

この妙な話を聖職者は、裁判所に対するKの思い違いをただすために持ち出したということになっている。この章の最後で明らかにされるのだが、この聖職者も裁判所の一員であって、どうやらKの審理の一環として、この寓話を持ち出し、彼を試していたらしいのだ。それに対してKのほうは、大した疑念ももたず、いわば丸腰で立ち向かうのだ。

まずこの寓話に対してKの抱いた印象が語られる。Kは、門番が男をだましたというふうに受け取ったのだ。それに対して聖職者は、だましたわけではないと答える。なぜならKには門の中に入る自由が残されていたからだ(力づくという形で)。門番が、男の臨終に臨んではじめて一切を明かしたのは、それ以前に男から何も聞かれなかったからだ。だから門番は自分の義務を十分に果たしたのであって、その点については、責められる理由はない、というのである。

この寓話を話すことで聖職者は、Kのどんな思い違いをただそうとしたのだろうか。この寓話のポイントは、男だけのために用意された門の中にその男が入れなかったという点にある。その理由を、Kのほうは門番が男をだましたからだ、したがって入りたかったにもかかわらず入れなかった、と受け取ったのに対して、聖職者のほうは、それとは全く違う、男のほうには、入る入らないについて選択肢があった。ところが男は入る選択があったにかかわらず入らなかった、つまり自分の意思で入らなかったのだ、と主張する。

聖職者は言う。「何よりもまず、自由な人間というものは拘束されている人間よりも上位にあるものだ。ところでその男は事実自由であり、どこへなりと意のままに行けるわけなのです。ただ掟への入口だけが禁じられているのであり、それもたったひとりの門番によって禁じられているに過ぎないのです。ドアの脇の床机にすわって、生涯そこにとどまっていたのも、自分の意思からやったことであり、この話に語られているかぎり、そこには何の強制も見出せません。これに対して門番は、その職務上自分の位置にしばりつけられており、他の場所へと離れて行くこともゆるされず、さりとてまた、彼が望んだところで、掟の内へも入っていけないらしいです」

聖職者のこの言葉は、いくつかの解釈が可能だ。男についていえば、掟の中に入らなかったのは、男自身の自由な選択によるものだから、そのことで門番を責めるいわれはないという見方も成り立つし、その反対に、門番が男を威嚇したのは確かなことなのだから、男はその威嚇におびえて、門のなかに入りたくても入れなかった、という解釈も成り立つ。その門の中に何があるのか、そのことについてこの寓話は何も示していないが、掟とか、法の入門書とかいう言葉が使われていることからして、法廷のようなものと考えられなくもない。一方、門番については、法組織(法廷)に仕える下っ端の役人としてみる見方と、そうした法組織の象徴として見る見方が成り立つ。いずれにしても、掟をめぐる男と門番の関係は、法廷での審判をめぐるKと裁判官たちとの関係に類比されるのではないか。

この見方が成り立つとしたら、この章は、法と個人の対立を象徴的に物語っていると言えなくもない。面白いのは、その対立が、法による個人の一方的な支配という形をとらず。個人にも一定の選択の余地があるような、いわば双務的な関係として描かれていることだ。Kが法廷によって断罪され、犬のように死ぬとしても、それは巨大な力によって理非もなく一方的に断罪されたのではなく、Kが自分で選択したといえなくもない、というわけである。

この見方を裏付けるような場面が、前のほうですでに出ている。最初の審理の場で、Kが演説の中で裁判所を一方的に非難したことに対し、予審判事が次のように言う。「あなたに注意してさしあげようと思ったのは・・・尋問というものは、逮捕されたものにとって、いつの場合にも利点であるのに、あなたは今日~その点がよくわかっていないようですが~その利点を自ら奪い取ってしまった、ということです」

言葉遣いがあまり明確ではないが、要するに、Kが裁判所の審理を尊重せずに一方的にそれを非難したことは、裁判を侮辱する行為であり、それによって本来被告に与えられている尋問への答弁とそれによって自らの潔白を幾分かでも晴らす機会を、自ら奪い取ってしまったということを言いたいらしい。つまりKは、自分に与えられた選択肢を誤って選んだというわけである。

話をもとにもどせば、Kと聖職者との会話は、中途半端なままで、いきなり中断される。聖職者のほうから、会話の継続を拒絶する意思表示がなされるのだ。それに対してKは、ここで別れると取り返しのつかないことになると思ったのか、行かないでほしいと懇願する。それに対して聖職者は言う。「だから私は裁判所のものなのだ・・・ならばどうしてあなたに求めることがあろう。裁判所はあなたに何も求めはしないのだ。あなたが来れば迎え、行くなら去らせるのみだ」

聖職者のこの言葉は、あの門番が行為で示したのと同じことを表現しているようだ。門に入りたければ入ればよい、入らずに去りたければ去るがよい、それが門番が行動で現わした意味だった。この聖職者はそれを、裁判を受けたければ受ければよい、受けずにすませたいなら去るがよい、と言っているわけだ。もっとも本当に受けずにすませられるのか、カフカのこの小説では保証のようなものは見えてこない。そこが不気味なところだ。

結局ヨーゼフ・Kは、聖職者とのこの会話のすぐ後で、死刑執行人に連行される。ということは、Kが裁判所に入り込みたいと思った、と裁判所が判断し、それについて裁判所なりの応答を行ったということなのだろう。裁判所としては、Kが裁判にこだわることは、犬のような死に価すると判断したのだと思う。

こうして見ると、「審判」という小説は、個人が法権力によって名指しされた時点で、有罪が確定していたのだ、ということを、韜晦な言葉で解明したものだといえるのかもしれない。




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