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カフカ的世界:存在の耐えられない軽さ


チェコ人であるミラン・クンデラは、チェコの作家フランツ・カフカを強く意識していたようである。理由は二つある。一つはカフカが「カフカ的世界」と呼ばれるような不条理な世界を描いたこと。もう一つは二人の境遇がよく似ていることだ。「カフカ的世界」についていえば、クンデラは同時代のチェコがまさにそれだと感じた。クンデラはそこで生きることが出来ずに、異国であるフランスで生きることにしたのである。そのことが第二の事態、つまり境遇の相似につながった。カフカはチェコに住みながら他国語であるドイツ語で書き、クンデラはフランスに住みながら他国語であるチェコ語で書いた。そのようなあり方を、ドルーズはマイナー文学と言った。クンデラもカフカ同様にマイナー文学の作家になったわけだ。

ここでは、「存在の耐えられない軽さ」の中で描かれている「カフカ的世界」について触れる。クンデラがこの小説の中で描いているチェコは、1968年前後のチェコであるが、それをクンデラは共産主義体制のチェコと呼び、ある種のディストピアとして描いた。そのディストピアとしてのチェコが「カフカ的世界」を想起させるのである。その世界の最大の特徴は、自由がないことだ。自由がないことというのは、常に監視されていて、生活の中から私的な部分や秘められた部分がなくなり、世間に対してむき出しにされた状態をいう。むき出しにされるのは、外面だけではない、内面もまたむき出しにされる。そんな社会のあり方をクンデラは「強制収容所」と呼んでいる。そこでは、ワインを飲みながらの個人的な会話が、公に放送されたりする。「強制収容所とはプライバシーの完全な破壊である」というのだ。

プライバシーが完全に破壊されるだけではない、自分の命も他者によって完全に破壊されることが珍しくない。テレーザは自分の嫉妬をトマーシュにたしなめられた後、ペトシーンの丘に登ってゆく。そこには三人の死刑執行人と三人の被執行人とがいた。死刑執行人は、被執行人にそれぞれ好きな木を選ばせ、その木を背中にした状態で銃殺した。かれらが銃殺された理由はわからない。ただ自分の死には同意していたようである。テレーザもまた「それを望みますか」という形で同意を求められる。だが彼女は同意しない。「それは私の希望ではなかったの」と答える。すると死刑執行人たちは、「あなたの希望でないとしたら、できません。そんな権利は私たちにはありません」と言うのだ。かれらにはどんな権利があるのか、小説は語らない。ただ人は自分の死に同意しさえすれば、ただちに殺してもらえるのである。そこが不気味だ。

テレーザはまた、わけのわからないまま、自分がなにかの陰謀に巻き込まれるのを感じる。その陰謀にはトマーシュもからんでいるらしいのだが、詳細はわからない。ただある男とセックスをする羽目になったことで、自分の弱みを握られたようなのだ。売春はチェコでは非合法だ。その非合法な売春をやったかどで、自分は告発されるかもしれないという恐怖をテレーザは抱く。自分がどのように言い逃れようとも、相手の男が金を払ってやったといえば、自分の言うことを信じるものはいないだろう。

トマーシュのほうも陰謀に巻き込まれる。彼の場合には、官憲から反体制グループのメンバーを密告するように迫られるのだ。それに対してトマーシュは、全く関係のない人間の名を仄めかしたりするのだが、それでも官憲からの圧力を逃れることができない。かれは腕のよい外科医師であり、社会的な地位を持っている。つまり失うものがあるのだ。官憲はそこにつけいって、トマーシュを意のままにコントロールしようとする。トマーシュは、官憲の追求から逃れるためには、自分が官憲にとって利用価値のないつまらぬ人間になるしかないと思いつめる。そこでかれは、外科医師をやめて、一介の窓洗いに身を落とすのである。一介の窓洗いなら、誰も相手にするものはいない。トマーシュはやっと官憲から無視してもらえるようになるのだ。

窓洗いになって二年ほどたったとき、トマーシュは変わった女から窓洗いの注文を受ける。彼女はべらぼうに背が高く、キリンとコウノトリをあわせたような風貌をしていた。彼女の目的は、トマーシュに窓を洗ってもらうことではなく、セックスの相手になってもらうことだった。そこでついにセックスする羽目になるのだが、彼女のセックスの仕方は実にユニークなのだ。彼女はトマーシュと立ったまま抱き合い、トマーシュがすることをそのままマネするのだ。「トマーシュは手を彼女の潤んだデルタにあて、それから指を、女たちの身体で何よりも愛しているアヌスへとすべらせていった。彼女のそれは滅多にないほど突き出ていたので、いささか出っ張ってそこで終わっている長い消化管を暗示的に思いおこさせた。彼があらゆるリングの中でもっとも美しい、医学用語で括約筋と呼ばれる、そのコリコリした健康的な輪に触れたとき、ほとんど同時に彼女の指を自分のバックの同じ場所に感じた。彼女は鏡のような正確さで彼のあらゆる動きを繰り返した」というのである。

こうした文章からは、人間の行動は模倣や反復からなっているというような冷めた見方が伝わって来る。人間は自分が自由だと思っているところで、実は他律的な影響のもとで行動している。それは条件反射に近い。そんなふうな見方も伝わって来る。条件反射といえば、テレーザもそれと意志せずに、自分のデルタが潤ってくるのを感じたりするのだ。

ともあれ、ペトシーンでの情景は、カフカ的世界の不気味さをもっとも強く感じさせる部分だ。クンデラのほうが不気味さの度合いは大きい。カフカの小説の主人公には、ある程度自分が殺されることへの予感があった。だが、納得して死んだわけではない。死ぬ瞬間、ヨーゼフ・Kは自分が犬のように死んでいくのだと感じるのだ。それに対してクンデラの被執行人たちは、自分の死を納得しながら死んでいく。おそらくそれを十分に予感してもいたことだろう。そこが不気味なのだ。その不気味さは、死が日常化していることから漂ってくる。



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