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カレーニンの微笑:存在の耐えられない軽さ


小説の中で動物に重要な役割を果たさせているものを、小生は俄かには思い出せない。例えばカフカのように、犬を惨めな死の隠喩として語った作家はいたが、それはあくまでも一時的な隠喩としてだ。小説の全体にわたって、あたかも登場人物の一員であるかのように、動物に重要な役割を与えているものは、なかなか思い浮かばない。ミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」は、動物を一人の登場人物と同じく重要なキャラクターとして位置付けている。

この小説に出て来る動物は何種類かにわたるのだが、もっとも重要な動物はカレーニンという名の犬である。この犬は、トマーシュがテレーザと一緒にスイスに移ってきた直後に、自分の不倫についてのテレーザの嫉妬を慰める目的で、友人からもらい受けたのであった。その友人は雌のバーナード犬を飼っていたのだったが、その犬が隣で飼っていた雄のシェパードの子を生んだ。だから頭は母親と同じバーナードで、胴体が父親と同じくシェパードだった。スイスでは雑種の犬は顧みられない。そこでこのままでは殺処分するしかないと思っていた友人が、トマーシュに貰ってくれないかと言ってきたのだった。トマーシュは複数いる犬の子たちの中から一匹を選んだ。彼に選ばれなかった犬が殺処分されるほか道はないと思いつつ。

その犬の名を、トマーシュははじめトルストイにしようと提案した。テレーザが始めてトマーシュの家に来た時、彼女がトルストイの本を抱えていたことを思い出し、それがこの犬の名に相応しいと思ったからだった。それをテレーザはいやがって、アンナ・カレーニナにしたいと言った。それに対してトマーシュは、この犬には女らしい名前は似合わないと言った。バーナードの顔がそんなイメージじゃないというのだ。結局二人の主張の間をとって、カレーニンと名づけたのであった。

雌犬は普通、人間の男を主人に選びたがるそうであるが、カレーニンはどういうわけか、女のテレーザを自分の主人に選んだ。そのことをトマーシュは感謝した。自分が不倫のために家をあけている時でも、カレーニンがテレーザの相手をして、慰めてくれることを期待できるからだ。

トマーシュたちがカレーニンを飼ったのは、スイスでのことだったが、それからまもなくテレーザはチェコへ戻ってしまった。カレーニンを連れて。トマーシュの不倫が許せないこともあったが、なんといってもスイスでは言葉も違うし、住みづらく感じたからだった。そんな彼女をトマーシュは追いかけるようにして、自分もスイスを捨ててチェコにもどった。そのチェコはロシアに占領されている状態であり、それから逃れるためにスイスに行ったはずなのに、わざわざその占領された祖国に舞い戻っていったというわけだった。そのことでトマーシュは、次第に不如意な境遇へと追いやられていくのである。

チェコでの生活を、トマーシュ以上に窮屈に感じたのは、カレーニンのほうだった。カレーニンはスイスへの引っ越しを決して喜ばなかったのである。というのも、スイスで培ってきた時間感覚がすっかり乱されてしまったからだった。犬の時間というのは、人間の時間と異なって、前へ前へと一直線に流れていくものではなく、時計の針に似て円を描いて運動している。ところがその運動が、スイスからチェコへ移動したことで乱されてしまった。それがカレーニンに混乱をもたらしたのである。

だが、カレーニンはすぐに自分なりの時間感覚をとりもどした。スイスにいた時と同じように、一日のリズムを自分なりに作り上げ、そのリズムにしたがって毎日を規則的に過ごす癖をつけた。朝になるとベッドの二人の上にとびかかり、朝一番の買い物にテレーザのお供をし、スイスにいたときと同様規則的な散歩をねだった。そんなカレーニンは、トマーシュとテレーザにとって、時計代わりになったのである。

毎朝の買物で、カレーニンはロールパンを買ってもらい、それを口にくわえて家に戻るのが日課だったが、ある日、家の近くで一羽のカラスが瀕死の状態で横たわっているのが見えた。それを最初に見つけたのはカレーニンである。カラスを見たカレーニンは興奮した。そのためテレーザはカレーニンを木の幹につながなければならなかった。カレーニンを木の幹につないでおいて、自分は死にそうになっているカラスの面倒を見たのである。クンデラがなぜ、こんな挿話を挟んだのか、よくはわからないが、こうした何気ない挿話が小説に潤いをもたらすとはいえそうである。ともあれ、カレーニンにとって時間は円環的であり、出来事はくりかえすものであったが、人間にとって「出来事は明日忘れ去られるように繰り広げられ、川は先へと流れていく」ものなのである。

この小説の最後の章は「カレーニンの微笑」と題され、カレーニンの死について描いている。実はこの小説の半ばほどのところで、カレーニンの主人であるテレーザとトマーシュの死が触れられていた。ところが小説はそこで終わらないで、トマーシュとテレーザの晩年の出来事が引き続き語られ、最期にカレーニンの死を以て終わるというわけなのである。そうした構造を顧みるにつけても、この小説において、動物であるカレーニンがいかに重要な役割を果たしているか、改めて気づかされるのである。

トマーシュとテレーザは人生最後の数年間をチェコの田舎で過ごす。そこでの生活はテレーザにとってはプラハのそれよりずっと心安いものであったが、カレーニンにとってもそうだったようだ。カレーニンは最初メフィストという名の豚を見た時えらくうろたえたのだが、すぐに仲良くなり、村の犬たちより好きになった。村の犬たちは「犬小屋につながれており、理由もないのにしょっちゅう吠えていたので、ばかにしていたのである」。まるでプラハの町の人間たちのようではないか。カレーニンは、メフィストが珍しい友達だということを正しく理解し、豚との友情を大切にしたのだったが、そうしたカレーニンの態度は、人間にとっても意義のあるものだと、語り手は言いたいかのようである。

カレーニンは足に癌ができたことが原因で死んだ。その前にテレーザは不思議な夢を見た。カレーニンが二つのロールパンと一匹の蜜蜂を産んだという夢だった。その夢を見た頃から、カレーニンは一本の足をひきずるようになり、またすっかり気が弱くなった。散歩にも行きたがらなくなった。そんなカレーニンをテレーザとトマーシュが心配して、あれこれ工夫をこらして元気づけようとすると、カレーニンは微笑を返すのであった。その微笑がどのようなものなのか、語り手は詳しく触れていないが、それは、犬が微笑するのはありふれたことだから、あえて詳しく語らなくとも、読者は当然わかっていると前提しているからだろう。小生にも、犬が微笑するさまは、イメージとして浮かんでくるような気がする。

ともあれ、人間の医者であるトマーシュは、犬のカレーニンを安楽死させてやったのであった。その安楽死を以て、この小説は終るのである。カレーニンが死んで二人きりになったテレーザとトマーシュは、それまでの二人の生活を回想し、そこに奇妙な幸福と奇妙な悲しみを味わった。悲しみは二人が人生という旅の最後の駅にいることを意味した。幸福は二人が一緒にいることを意味した。「悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした」



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