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プーシキンを読む


アレクサンドル・セルゲーエヴィッチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин 1799-1837)は、ロシア近代文学の祖といわれる。ロシア文学は、プーシキンによって、世界文学の歴史のうえで、ほかの西洋諸国の文学と肩をならべる近代的な文学になったといえる。ロシア文学はその後、レールモントフ、ゴーゴリを経て、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイにつながる偉大な伝統を築いていくのである。

プーシキンは、地主貴族層の出身である。父方は古い家柄の貴族である。一方母型の祖先にはピョートル一世の侍従長をつとめたというエチオピア生まれの黒人がいる。

プーシキンが小・青年時代を過ごした19世紀初頭のロシアは、農奴制がいまだ堅固な基盤に支えられていたが、一方では、農奴制にともなう封建的なシステムへの反感が貴族層の若者たちの間に広がり、のちにデカブリストとよばれる過激思想が台頭してもいた。プーシキンもまた、そうした過激思想に接し、初期のデカブリストたちとつながりがあった。

そんなわけで、プーシキンは官憲から過激派のレッテルを張られ、つねに監視されることになる。そんなプーシキンの最初の文学的な営みは、抒情詩であった。プーシキンは少年時代から詩の才能を示し、今日残されているかれのもっとも古い抒情詩は、15歳のときのものである。

最初の本格的な文学上の業績は、叙事詩「リュスランとリュドミラ」である。これをかれは20歳のときに完成させた。ついで、かれの畢生の大作というべ「エヴゲーニイ・オネーギン」の創作に取り掛かった。これには長い時間を要した。24歳の時に第一部を書き上げ、完成したのは31歳のときである。この作品は、ロシア人の青年に特徴的な性格を描くとともに、ロシア女性の理想像のようなものを表現しており、のちのロシア文学に大きな影響を及ぼした。

「エヴゲーニイ・オネーギン」を書く傍ら、戯曲「ボリス・ゴドゥノフ」を書く。これはロシア史に題材をとったもので、リューリック王朝が滅亡したあと僭主となったボリス・ゴドゥノフと、かれに対抗する偽皇帝の行動をテーマにしたものである。このテーマはロシア人にとってなじみのあるものであり、民衆にとってはロシア的な王権劇の典型とうけとられたものである。この王権劇には、シェイクスピアの王権劇の強い影響が指摘される。

「エヴゲーニイ・オネーギン」は、1830年に、ニジゴロド県ボルヂノの別荘で完成したのであったが、それと並行して、「ベールキン物語」と呼ばれる一連の短編小説を執筆した。これらの短編小説は、当然散文で書かれていたが、その散文はのちに、ロシア文学の散文の模範となった。散文的な表現における、プーシキンのロシア文学への貢献は、どれほど強調しても協調しきれないといわれている。

その後、「青銅の騎士」、「スペードの女王」を手がけ、1833年には「大尉の娘」を書き始める。これは1836年に完成し、プーシキンにとっては最後の作品となった。テーマは、やはりロシア史の一こまプガチョフの乱である。この乱は農民戦争ともいわれるように、ロシアの専制的な農奴制に対する農民の怒りから起きたものだが、プーシキンはそれを、地主貴族層に属する青年の視点から描いた。その視点には、多分に階級的な偏見がふくまれているが、プーシキンはそうした偏見も含めて、ものごとをリアルな視点から描いたのである。そこから一種独特の諧謔的な雰囲気がただよってくるように書かれている。当時は、専制政府による検閲が厳しかったし、プーシキン自身ブラックリスト上の人物だったので、事実をありのままに、しかも自分自身の価値感を押し出しながら書くというわけにはいかなかったのである。

プーシキンは37歳の若さで死んだ。プーシキンの妻に横恋慕した男との間でもめごとが起こり、二人は決闘するはめになった。その決闘で、プーシキンは瀕死の重傷を負い、二日後に死んだのである。これは自分の妻をまきこんだ三角関係の結末であったが、そういう恋のさや当てに命をかけるところに、プーシキンの意地のようなものを感じることができよう。

そういう具合に、プーシキンはロシア文学の革新者であったとともに、ロシアの青年気質を象徴する人物として、ロシア人から深く、長く、愛され続けてきたのである。


ボリス・ゴドゥノフ:プーシキンの王権劇

プーシキン「エヴゲーニイ・オネーギン」を読む

ベールキン物語:プーシキンの短編小説集

疫病時の酒宴:プーシキンの短編小説

青銅の騎士:プーシキンの叙事詩

プーシキン「スペードの女王」

プーシキン「大尉の娘」:プガチョフの乱を描く

プーシキンンの抒情詩





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