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妻:チェーホフ


ロシア文学にはユニークな人間類型が登場するが、なかでもいかにもロシア人らしいものといえば遊民だろう。遊民というのは、まともな仕事をしないで、ただ漫然と生きている連中のことで、自分自身にはいいところが全くないくせに、その自分をいっぱしの人物と自認する一方、世の中を甘く見て、自分以外の人間たちを軽蔑している。そんなことが身に着いたのは、かれらが生まれながらに甘やかされて生きて来たからで、それというのも、かれらは生まれながらに莫大な財産を持ち、また高等教育を受けてきたからだ。高等教育はかれらにとっては、世界を正しく解釈する手掛かりを与えてくれるというよりは、こざかしい理屈を弄して世間を馬鹿にする手だてをもたらしてくれるにすぎない。

短編小説「妻」も、そうした遊民をテーマにしている。この小説に出てくる遊民は、大多数の遊民がそうであるように、大勢の農奴を所有する大地主ではなく、土木技師らしいのだが、しかし田舎に広壮な邸宅を構え、なに一つ不自由のない生活をしている。そんなわけで彼には不如意なことはないはずなのだが、ひとつだけ不如意なことがある。妻にかかわることだ。かれは自分の妻を心から愛しているのだが、その妻が自分を愛してくれないばかりか、つねに自分の神経にさわるようなことばかりしている。それが原因でかれらは表向き仲が悪くなり、寝室も別々にしている。いわば家庭内別居の状態にあるわけだ。

小説はそんな夫婦の関係を、夫の視点から描いている。夫の視点であるから一方的である。その視点からは、夫たる自分は常に正しく、妻は常に愚かだということになる。しかし夫はそんな妻に対してなぜか引け目を感じる。それはかれが妻に惚れていて、妻の精神的な影響力に屈服しているからだ。つまり、この男は妻から自立していないわけで、妻を軽蔑するふりをしながら、妻がいないでは生きてはいけないのだ。そんな夫を妻は、シニカルな目で視る。彼女は夫にはほとんどなにも期待してはおらず、夫から得られないものを他に求めようとする。もっとも他の男を相手に不倫を働こうというわけではない。ある仕事に情熱を燃やそうというのだ。その仕事というのは、慈善事業だった。彼ら夫婦が暮らしている土地のそばでは、深刻な飢饉が生じていて、百姓たちが悲惨な境遇に陥っている。そんな百姓たちを、自分ができる範囲で助けてやりたい。そんな殊勝な気持ちから彼女は、自分で慈善事業をたちあげて、百姓たちを救ってやりたいと考えるのだ。

一方夫のほうも、百姓たちの窮状をなんとかしてやらねばならないと考える。かれにそう考えさせたきっかけとして、小説の冒頭で何者かからの手紙が紹介されるが、その手紙には近隣の村落における百姓たちの窮状が述べられており、主人公たる自分に対して、その救済に立ちあがるように促していた。その促し方がかれの自尊心に訴えかけるので、かれは自分の名誉のためにも百姓たちの救済に立ちあがらねばならないと思い込む。しかしかれは多くの遊民がそうであるように実行力に欠けている。そこで親しい友人たちに助力を求めたりするが、友人たちはかれが口先だけで、実際には実行する能力も気力もないことを知っているので、まともに相手にはしない。一方かれの妻の計画には大勢の人々が共感し、進んで寄付を申し出たりしているのだ。

そういう状況を目にした夫はある種のパニックに陥る。いままで小ばかにしていた妻が、自分よりはるかに実行力があり、しかも高い能力を発揮している。それにくらべて自分は、屁理屈をこねまわすだけで、何一つとして動かすことができない。そんな自分に愛想をつかした夫は、頭を冷やす意味でしばらくペテルブルグで静養しようと考える。しかしかれには一人で出発する勇気が湧いて来ない。いったんは荷物をまとめて鉄道の駅まで行ったものの、なにかと理屈をつけて計画をとりやめ、自分の家にすごすごと戻っていくのだ。家には妻が待っていて、自分に対してシニカルな態度をとる。しかし自分はそれについて腹をたてる気持ちにもならない。かれは妻を深く愛しているので、妻を本気で離縁する気にはなれない一方、妻の尻にひかれるのは論外なのだ。そこでかれがとった態度は、妻には好き勝手なことをやらせる一方、自分も自分自身の枠に閉じこもって、好き勝手な生き方をするというものだった。その生き方とは、かれがライフワークにしていた鉄道史を執筆するというものだった。

こうして奇妙な均衡を回復したかれら夫婦には、一見平和な生活が戻って来る。しかしその生活は、妻が慈善事業にそそぐ散在のおかげで、夫の生まれながら持っていた財産が費消されることを意味していた。

こんなわけでこの小説は、ロシア人の一典型としての遊民を描いているのだが、いまひとつわかりにくいところがある。それは小説が第三者の視点からではなく、当時者としての遊民の視点から書かれており、勢い自己弁護が多くなって、どこまでが自己弁護でどこからが客観的な事実なのかわからないところが多いからだろう。




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