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熊:チェーホフの戯曲


アントン・チェーホフの一幕もの戯曲「熊」は、好色な中年男と世間知らずな未亡人との一目惚れの恋を描いたものだ。テーマ設定としては、短編小説「犬を連れた奥さん」と似ている。こちらの方が十年も前に書かれていることもあり、テーマの特徴がより単純化された形で現われている。それは一言で言えば、ロシア人男女の刹那的な傾向とかかわりがある。ロシアの男はわけもなく女に一目惚れし、女もそれに対してわけもなく応えるという傾向だ。こういう話を読まされると、ロシア人と言うのは実に純粋な人々だと思わせられる。

一幕ものということもあって、登場人物も少ない。一目惚れしあう一対の男女と、女の従僕だ。従僕は物語進行に必要な最低限の役割を果たしているだけで、この一対の男女のやり取りがほぼすべてと言ってよい。そのやり取りというのが、罵りあいに始まり、それが高じて決闘騒ぎになり、あげくの果ては男がいきなり女にいかれてしまうという話だ。決闘しようとまでした女に、何故男がいかれたのか、それは説明されない。男は天啓に打たれたように、いきなり女が恋しくなるのだ。その男の真心に女のほうも応えて、二人はやにわに結ばれるのである。こういう安易な結ばれ方は、ロシア人ならではのことなのだろう。すくなくとも日本人は、こんな安易な結ばれ方はしない。

ポポーヴァは七か月前に夫を亡くした未亡人である。彼女は喪服姿でいる。その喪服を、彼女は生涯着続けるつもりでいる。それほど彼女は夫を愛していたのだ。いまさら他の男と再婚するなど考えられないし、世間と交わる気持ちにもなれない。このまま四つの壁のなかに閉じこもって一生を終えるつもりでいる。

そこへスミルノーフと名乗る中年男がやってくる。用件は借金の取り立てだ。彼女の夫に生前用立てた金を返して欲しいというのだ。彼女は、返すつもりはあるが、今は手持ちの金がないので、明後日迄待って欲しいと答える。それに対して、今すぐ払ってもらわねばならないとスミルノーフは主張する。もしいま払ってもらえないのなら、払ってもらえるまでここを動かないと脅迫する。その脅迫に興奮した彼女がスミルノーフを散々に罵る。罵りついでに、スミルノーフを「熊」といって茶化す。題名の「熊」は、彼女がスミルノーフにつけた不名誉な綽名なのである。

不名誉な綽名で侮辱されたスミルノーフは、彼女に決闘を申し込む。男が女に決闘を申し込むなど、ロシア以外では考えられないことだ。スミルノーフは、男である自分が女に決闘を申し込むのは、別に不名誉なことではない、なぜなら今や男女同権の世の中だからだ、と屁理屈をいってごまかそうとする。しかし、いくらなんでも、女と決闘して、相手を殺したとあっては、世間の物笑いになるかもしれない。そう思い直したスミルノーフは、女に向かって、自分は空に向かって拳銃を撃つつもりだと宣言する。それに対してポポーヴァは、わたしはあなたの額のまんなかに穴をあけてやるといきまく。

このように互いに息巻いていた二人だが、スミルノーフはいきなり天啓に打たれたように、ポポーヴァが恋しくなる。その改心ぶりは、まさに天啓というべきで、理屈もなければ意思もない。ただただ女が恋しいのだ。

そこでスミルノーフは、有無をいわさずポポーヴァを抱きしめ接吻する。それをポポーヴァは拒まない。彼女のほうでも接吻に応えるのだ。そうして二人は結ばれるというわけだが、なぜ彼らが結ばれなければならなかったか、それは誰にもわからない。ただ、ロシア人にはこういうことが珍しくはないのだ、と思わせられるばかりである。

ともあれ、こういう話を聞かされると、ロシア人というのは、いったいどんな人々なのか、日本人としては知りたくなるところだ。スミルノーフは、自分を罵っていた女を、初めから好きだったわけではない。かれがポポーヴァを好きになるのは、彼女を強烈に意識せざるをえない立場に追い込まれたからだ。その立場とは、もしかしたら彼女に殺されるかもしれないという危惧に支配されたものだろう。どうしたらその危惧から逃れられるか。そんな思いが刹那的にスミルノーフの頭によぎったことは十分にありうる。

その境遇から楽に逃れられる手っ取り早い方法は、彼女と結ばれてしまうことだ。そこで彼は彼女に向かって猛烈にタックルする。そのタックルが恋のタックルならば、そんなに見苦しくもないだろう。何故ならロシア人にとって、男が恋に溺れて愚かなことをするのは見苦しいことではないからだ。

しかし、ポポーヴァがそんなスミルノーフのタックルに簡単に屈してしまうことが、多少不可解に思われる。しかしそれは、我々日本人の基準をロシア人に適用しようとすることから来るので、ロシア人の立場からすれば不可解でも何でもない。ロシアの女というのは、自分の意見を持たないし、つねに男に依存していなければ生きてはいけないのである。だから、相手が不細工な中年男で、自分に対して無礼を働いても、その男が自分に求愛している限りは愛しい男なのである。ロシアの女にとっては、男の求愛に応えないほど、ぶしつけなことはない。と、そんなふうに、この戯曲は思わせてくれる。




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