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かもめ:チェーホフの戯曲


「かもめ」は、チェーホフの四つの長編戯曲のうちの最初のものである。既に短編小説作家として成功していたチェーホフは、この戯曲で、短編小説とは違う世界を描き上げようとした。チェーホフが短編小説で描いたのは、ロシア人の個人としての典型であったといえるが、この戯曲でめざしたのは、ロシア人の家庭、しかも地主階級に属する家庭の典型であったと言えるのではないか。その意味でこの戯曲は、革命以前におけるロシアの地主階級のメンタリティを描いたものと言えよう。

メンタリティという言い方をしたのには、ワケがある。この戯曲は、演劇の台本にしては、演劇的な要素に乏しいのである。ダイナミックな筋書きがあるわけではないし、クライマックスというべき部分にも劇的な盛り上がりがない。一応主人公らしい人物の自殺で幕が閉じられることになっているのだが、その自殺がどういう事情からなされたか、いまひとつ明らかでないし、自殺したこと自体が、間接的に言及されるだけで、クライマックスにふさわしい劇的な表現をとっていない。そのことから、アンチ・クライマックスだと評されたくらいである。

舞台は、その自殺することになる若い男トレープレフ、その母親で女優のアルカージナ、その恋人で劇作家のトリゴーリン、トレープコフの女友達でトリゴーリンと駆け落ちすることになるニーナといった人物たちを中心に展開する。展開と言っても、劇的な事柄が生起するわけではない。一応劇中劇という形で演劇的なシーンが挟まれるが、それも尻切れトンボで終わってしまう。舞台の上で繰り広げられるのは、登場人物たちのおしゃべりなのである。そのおしゃべりというのが、愚痴であったり不満であったり、あてこすりであったりする。要するに健全な人間の会話とはいえないようなしろものなのだ。

なぜ、そんなことになるのか。それを理解するためには、彼らの階級的な出自に注目する必要がある。アルカージナも、その兄のソーリンも、ニーナの父親も地主なのである。アルカージナは女優もしていることになっており、兄のソーリンは長い役人生活を経験したことになっているが、心情は地主である。その心情というのは、自分では積極的に働かず、無為のままに生活を送っているといった、怠惰な人間の心情である。怠惰な人間のしゃべることだから、健全なものになるわけがない。その不健全な会話を、この戯曲は延々と聞かせるのである。

トレープコフは一人前の作家になることをめざしている。かれはニーナという娘が好きになって、彼女のために芝居を書いてやり、それを滞在先の伯父ソーリンの屋敷で公演する段取りになる。この戯曲は、叔父ソーリンの屋敷が舞台になっているのである。その屋敷に妹のアルカージナとその息子トレープレフが居候し、かれらにつきまとうような形で、アルカージナの恋人トリゴーリンとか、トレープコフの思い人ニーナが出て来るというわけである。劇にはその他にも色々な人物が出て来るが、劇の中で重要な役割を果たすのは以上に述べた人物たちである。

そのうちニーナが心変わりをして、トレープコフとの愛をすてて、トリゴーリンと駆け落ちしてしまう。劇の題名にある「かもめ」とは、そのニーナが自分を称して言う言葉だった。彼女は口癖のように、「わたしはかもめ」というのだが、それはなぜかと言えば、かもめが湖に引き付けられるように、わたしは気に入った男に引き付けられるという意味なのである。つまり、男なしでは生きていけない女という意味を、このかもめという言葉に込めているわけである。

一方、捨てられた形のトレープコフは、最後には自殺してしまうのだが、その理由がどうやらニーナに捨てられたことと関係しているのではと観客に思わせるところがある。かれはニーナが駆け落ちした後奮起して、作家としての一定の名声を獲得し、一応自分の野心を実現したように書かれている。だから、かれには、ほかに自殺する理由が見当たらないのである。ニーナが久しぶりに自分のもとに現われ、彼女がそれまで蒙って来た辛酸について語るのを聞いて、これがかつて自分の愛した女かと思うと、どうにもやるせなくなり、それで自殺したのではないか。つまり、遅ればせの失恋による打撃が、トレープコフの自殺の原因と思えないでもない。

こうしてみると、この戯曲は、ロシアの地主階級に属する家庭を描きながらも、そこで描かれている個人は、ロシア人としての典型的なタイプだと思いいたる。男について言えば、うぬぼればかりは強いが、優柔不断で肝心なときに自分を見失い、女についていえば、自己というものをもたず、常に他人、つまり男の意見に従って世間を見るといった主体性のなさ、それがロシアの男女の典型的なタイプだとしたら、この戯曲に出て来るトレープコフとニーナとは、それを見事に体現しているのである。

トレープコフの母親アルカージナは、女優としての自分に誇りをもっていて、演劇作家のトリゴーリンを、道化のような形で従えている。一応は恋人同士らしい様子を感じさせるが、トリゴーリンがニーナに子どもを生ませても、別に嫉妬するわけでもないらしいので、彼女は本気でトリゴーリンを愛しているわけでもないと思わせる。彼女はまた自分の息子にもほとんど母親としての関心を示さない。要するに自分のことで頭がいっぱいなのだ。そんな彼女に兄のソーリンが、もっと息子の面倒を見てやれといい、すこしは小遣いを与えたらどうかと勧めると、私には余分な金がないといって拒絶する。金がないわけではなく、息子と雖も他人のために用立てる金はないということだろう。

兄のソーリン自身も、自分には自由になる金がないと言っている。金自体がないのではなく、自分の自由になる金がないのだ。なぜそうなのか。戯曲の字面からは伝わってこない。

こんなわけでこの戯曲は、かなり破綻した人間関係がテーマになっているように映る。




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