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牛島信明「反=ドン・キホーテ論」



牛島信明は岩波文庫版「ドン・キホーテ」の最新版の翻訳者であり、セルバンテスの研究者としては、日本では一流の人だったと思う。惜しくも(2002年に)62歳で亡くなってしまったが、幸い翻訳のほかに、ドン・キホーテ論も残してくれた。ここに紹介する「反=ドン・キホーテ論」がその主な業績だ。

「反=ドン・キホーテ論」とあるのは、従来支配的だったドン・キホーテ論に異説を唱えたい、という意思が込められているのだろう。

牛島が理解する従来の定説とは、一つには、ドン・キホーテという小説を、一方ではスペインの歴史の中で現れたスペイン的な現象として位置付けようとする見方であり、主にスペイン語系の学者たちによって共有されている見解である。もう一つは、この小説をルネサンスの残照の中で現れた最初の近代文学として位置付けようとする見方で、これは世界中の学者たちによって広く共有されているところである。

「ドン・キホーテ」をスペインの歴史的な運命と関連付けるような議論は、オルテガ・イ・ガセーが代表的なものであり、最近ではメキシコの作家カルロス・フェンテスがセルバンテスをスペイン帝国の栄光と転落との関連において論じている。彼らの考えによれば、ドン・キホーテはスペインとの関連なしでは理解できない小説であり、したがって特殊スペイン的な小説だということになる。

しかし、牛島はそうは見ない。彼はそうした議論に接するたびに、「ドン・キホーテ」という作品がひどく矮小化されているように感じるというのだ。

牛島は、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの人物像は、たしかに世界の他の国の文学には現れえない特異性を帯びていると認めてはいるが、それを、スペインの特異性と結びつけることはしない。その特異性とは、「二人が歴史、文学、神話などの中に、いかなる前例,前兆をも持つことなく、突然現れ出たキャラクターである」という点にある。つまり、「ドン・キホーテ」は、スペインどころかどんな国の、どんな歴史、どんな文化をも超越した特異で、前例のない文学だというのである。

こう「ドン・キホーテ」を位置付ければ、これをルネサンスとの関連で論じている様々な批評とも、分析視角を異にすることになるのは自然なことだ。

「ドン・キホーテ」をルネサンス風の道化の文学と特徴づけた論考の代表的なものはミハイル・バフチーンだろう。バフチーンはラブレーの場合における程には、セルバンテスの小説を詳細に論じているわけではないけれど、「ドン・キホーテ」にも、「ガルガンチュア」や「パンタグリュエル」と共通するグロテスク・リアリズムを見て取っている。グロテスク・リアリズムとは、高位のものを低位のものへ、精神的、理想的なものを物質的、現実的な次元のものへと「格下げ」することを本質としているが、こうした「格下げ行為」は「ドン・キホーテ」の世界のあらゆる部分に見られる。彼の高邁な理想主義は、つねに現実によってその正反対のものへと転化されてしまうのである。

格下げ行為を、その行為の主体の面からとらえれば、それはモック・キングあるいは道化ということになる。ドン・キホーテとは高邁な道化なのであり、彼の周りにはだから、カーニバル的な祝祭空間が展開するのである。つまり、「変化や流動性、価値や権威の相対化、秩序や論理の逆転、パロディや冒険、物質的・肉体的下層のイメージ」が、ドン・キホーテ的世界の内実を形成している。「ドン・キホーテ」とは道化を主役にしたカーニバル劇なのだ、というのがバフチーンの基本的な見方だ。

牛島も、「ドン・キホーテ」がこうしたカーニバル的な雰囲気に満ちていることは認めている。しかし、彼は「ドン・キホーテ」のカーニバル的性格をもとに、それがルネサンスや中世的な世界像と密接にかかわり合っているとはいわない。彼の視点はむしろ、同時代や過去にではなく、未来へと向けられるのだ。

牛島にとって「ドン・キホーテ」とは、近代小説の鼻祖であり、あらゆる近代小説がそこから生じてきた原点なのだ。「ドン・キホーテ」以降のあらゆる小説は何らかの意味で「ドン・キホーテ」のバリエーションといってもよい。そういったうえで牛島は、「ドン・キホーテ」の近代性とは、「この小説がまさに近代読者を必要とするという点にある」とまで言っている。

この言い方からすれば、「ドン・キホーテ」は近代(それは19世紀以降をさすらしい)になって初めて小説として存在するようになったという逆説が成立する。つまり、「ドン・キホーテ」は、それが書かれた時代の同時代人からは真に理解されることはなかったのであり、ハイネやシュレーゲルなどドイツロマン派の文学者たちによって、はじめて正しく理解された、つまり近代文学として発見された、ということになる。

こうした見方に立てば、牛島がオクタビオ・パスの次のような文章を引用しながら、セルバンテスをボードレールと同一の地平で論じているのも、不可解ではなくなる。

「ボードレールをして近代詩人たらしめているものは、キリスト教的秩序との亀裂というよりはむしろ、その亀裂に対する意識である。近代性とはすなわち意識である」

つまりセルバンテスはボードレール同様に、現実の中にぽっかり開いた亀裂に対して意識的な近代人なのであり、「ドン・キホーテ」は近代的な心理小説なのだということになる。

こうした見方が一面的に過ぎると感じるのは、筆者のみではあるまい。「ドン・キホーテ」が近代小説に巨大な影響を与えたということは、確かなようには思える。そうした点では、「ドン・キホーテ」の中には、近代人の評価に耐えるものが存在しているのもたしかだろう。しかしだからといって、「ドン・キホーテ」がそれ以前の歴史的・文化的制約から無縁な、近代的な読者にのみ開かれた世界だと断定するのは、余りに依怙地すぎる態度だといわねばならぬようだ。

筆者などは、「ドン・キホーテ」という作品を、基本的にはルネサンス文学だと位置付けている。この作品が、それ以降の小説にとって出発点となったのは、過去から断絶して未来を向いていたというような事情からではなく、ルネサンスという時代の空気を十分に孕んでいたがゆえに、過去の巨大な遺産を集約しつつ、未来にとっての出発点になりえた、ということなのではないか。





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