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メタフィクションとしてのドン・キホーテ



ナチスを逃れてアメリカに亡命したトーマス・マンが、大西洋上の船の中で「ドン・キホーテ」に読みふけったことは、文学史上の出来事として良く知られている。(「ドン・キホーテ」とともに海を渡る)

マンがもっとも感心したのは、この小説が持つ特異な構成についてだった。特に後編において、ドン・キホーテ主従を屋敷に招いて歓待する公爵夫妻が「ドン・キホーテ」の前篇を既に読んでいて、ドン・キホーテの奇想天外な冒険や彼の狂気じみた人柄を知ったうえで、愚弄しようとしている部分について感心している。

「もし公爵家の人たちが、すでに書物の上でこの風変わりな主従を熟知していず、また、二人に個人的に(実際に)会って殿様らしい冗談気から邸に泊めて慰もうというほどに興がらなかったとしたら、二人は公爵家へなど到底立ち寄りはしなかっただろう。全く斬新で、前代未聞である。世界の文学中、小説の主人公がそんなふうに、いわば自己の評判によって、自己の大衆性によって生きているような作品はまずこれ以外に見当たるまい」(高橋義孝訳)

文豪をこんなふうにうならせたのは、この小説がもつ入れ子細工のような複雑な構成なのである。前篇で展開されていた出来事を、後篇で出てくる人々がすでに小説として読んでいる。また、前篇の成功に便乗した偽作が出回っていて、主人公はそのことを知って憤っている。つまり、自分の偽物がのさばっているのを許せないわけである。

そればかりではない、前篇そのものも、セルバンテスという作者一人の手になったものではなく、実は複数の人の手が絡んでいて、作者セルバンテスは、いわば複数の原テクストの最終的な校正者に過ぎないということになっている。

こうしたいくつもの次元にわたる重層性を、牛島信明は「メタフィクション」と呼んだ。フィクション全体が、いくつものサブフィクションからなっているばかりか、そのサブフィクションは既に公開されていて、作者も登場人物も、それを前提として新たな行為に向かう。そんなところが、ただのフィクション(小説)ではなく、フィクションらしくないフィクション、あるいはフィクションを超えたフィクション、すなわちメタフィクションだというわけなのである。

まず、前篇の作者に関してセルバンテスが言っていることを整理したうえで、牛島は次のように書いている。

「なんと手の込んだからくりであろう。まず(あろうことか)史実としての古文書があり、それに基づいて史家シーデ・ハメーテ・ベネンヘーリがアラビア語で「ドン・キホーテ」を書き、それをバイリンガルであるモーロ人がスペイン語に訳し、さらに、それを第二の作者たるセルバンテスが編集することによって、我々が手にするスペイン語版「ドン・キホーテ」が成立した、ということになっているのである」

これは、この小説が複数のテクストをもとに構成されたメタ・テクストであると指摘した部分だ。面白いのは原テクストの作成者として、イスラム教徒やバイリンガルのモーロ人が関わっていることだ。これらの人々は、中世のほぼ全期間にわたって、スペインでキリスト教徒と共存してきた人々だ。スペインのスペインらしさが論じられるときには、必ず参照される人々である。これらの人々を原テクストの作者として登場させることで、セルバンテスが何を言おうとしたのか、これもまた興味深いテーマではある。

それはともかく牛島は、セルバンテスが複数の作者を登場させたのは、この小説に複層性や曖昧さを持たせるための工夫ではないかとして、エレーナ・ペルカス・デ・ポンセッティの次のような表現を紹介している。

「セルバンテスの場合、小説に架空の作者を導入することにより、統一することが不可能なほどの相違なる視点から把握されたさまざまな現実を投影するという、特異な効果をあげている」

牛島はまた、特に前篇の中で沢山出てくる長短さまざまな挿話に言及している。それらの挿話のなかには独立した中編小説といってよいほどのものもある。またテーマも多彩である。(牧人小説風のもの、感傷小説風のもの、モーロ小説、イタリア風小説といった具合)不思議に思えるのは、それらの挿話は、小説の本文と直接関係がないものが殆どであるということだ。だから読者はそれらを読み飛ばしても、筋からそれるということがない。「ドン・キホーテは退屈な読み物だ」という批評がいまでも根強くあるのは、こうした挿話の存在を踏まえての印象だと思う。

後篇では、公爵夫妻と並んで、サラマンカ大学出身の学士サンソン・カラスコが登場して、ドン・キホーテ主従と奇妙なやり取りを行う。その中で注目すべきは、「前篇」の内容について、三人がそれぞれの立場から批評するところである。

最も滑稽なのは、サラスコが小説の筋の展開に矛盾があることを指摘したことに、主従が次のように答えるところだ。

「それにはなんて答えたものか、おいらには分からねえ。恐らく歴史家の先生の思い違いか、印刷屋の不注意という以外にはね」(サンチョ・パンサ:牛島訳)
「わしの伝記の作者は、賢者どころか無知なおしゃべりで、いっさい筋道を立てることもなく、出たとこ勝負で、やみくもに書き始めたに違いない」(ドン・キホーテ)

ドン・キホーテ主従は、自分たちが登場する小説の矛盾を、印刷屋のミスや作者の無知のせいにしてしまうのである。

こうしたわけで、「ドン・キホーテ」と言う小説は、さまざまな仕掛けに富んだ、遊び精神の産物だといえる。





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