知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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アイロニーとユーモア



牛島信明は、「ドン・キホーテ」を、反対のものをも包みこんだ多義的な曖昧さからなる文学世界だとしたうえで、その曖昧さを形成するものはセルバンテス独特のユーモアなのであり、そのユーモアを醸し出すのはアイロニーだとしている。彼の定義によれば、「ドン・キホーテ」とは「アイロニーの文学」ということになる。(「反・ドン・キホーテ論」第6章)

ところで、アイロニーといい、ユーモアといい、どのように了解すべきだろうか。その了解の仕方によっては、「ドン・キホーテ」の世界を読み間違えることもあろうというものだ。

牛島は、まずいつくかの伝統的な見解を紹介している。最初はトーマス・マンの見解だ。マンによれば、「イロニーは読者なり聴衆なりに、微笑を、言ってみれば知的微笑を誘い出す芸術精神であるのに対し、フモールのほうは哄笑を引き起こすもの」ということになる。つまりアイロニーもユーモアも、ともに笑いである点にはかわりはなく、そこに程度の差は認められても、本質的な相違はないということになる。

次いで、ベルグソンは、アイロニーもユーモアもどちらも、風刺の形態であるとした。ユーモアが科学的な点を持っておるのに対し、アイロニーは雄弁的性質のものであるという点で、両者の方向は反対を向いてはいるが、ともに風刺の形態である点では共通しているという。

また、ロベール・エスカルビは好著「ユーモア」の中で、笑いの高級なものをユーモアであるとし、その中でもさらに知的、批評的な部分をアイロニーと定義づけている。どちらも笑いの形態であるとする点では。トーマス・マンと共通しているわけである。

さらに、ドン・キホーテに即してアイロニーとユーモアを論じたオクタビオ・パスは、ドン・キホーテと世界との間の不調和を解消する原理としてアイロニーとユーモアをあげているが、両者の間に明確な区別をする努力をしていないことからも、パスもまたこの両者を同じようなものとして見ていたことは明らかだといえるようである。

これらの説にあっては、アイロニーとユーモアとを基本的に区別する視点がないわけであるが、牛島は、両者は画然と区別されるべきであるし、また区別することが可能だと考える。

では、両者を区別する原理を、どこに求めたらよいのだろうか。牛島は、語源をたどることによって、それを見出そうとする。

まず、アイロニーの語源はギリシャ語のエイロネイアである。エイロネイアは「偽りの、装った無知」という字義であるが、それは言葉が連想させるように、外見と実態のかい離を意味している。そこから反語という意味を担うようになった。これからわかるように、アイロニーとは発生学的に見て、修辞学上のひとつの言語技法を表していたといえるわけである。

一方ユーモアは、ラテン語でフモール「液体、人間の体液」が原義である。古代から中世にかけては、人間の体質や気質を主要な体液(血液、粘膜、黄胆汁、黒胆汁)と結びつける俗説が流行っていたが、これからわかるとおり、ユーモアとは人間の気質とか姿勢といった精神的傾向あるいは態度と密接に結びついていると、考えることができるわけである。

以上から導かれるのは、アイロニーが言葉の使い方にかかわる技術的な概念なのに対して、ユーモアとは言葉をあやつる人間そのものの精神的なありようを意味しているということだ。つまり両者は本質的に異なった概念だと考えることができるわけである。とすれば、トーマス・マン以下上述のいずれの説とも異なり、アイロニーとユーモアとは、別個の概念として扱う必要がある、ということになる。

とはいっても、両者は互いに媒介を許さないほど相違したものではない。もしそうなら、トーマス・マンらの説が成り立つ余地は全くないであろう。彼らの説も成り立ってきたという事情が、両者の間に一定の媒介が成立する余地のあることを物語っている。

牛島は、アイロニーとユーモアとを、原因と結果の関係でとらえ直すのである。彼によれば、「アイロニーとは理論的に分析可能なもの、従って多種多様なパターン化を許すものである。それに対してユーモアとは、(広義に解釈された無数の)アイロニーによって醸し出される感興であり、情緒であり、雰囲気である。それ故、アイロニーを、ユーモアを醸すための文体的手段と言うこともできるし、また両者を大きく、原因(アイロニー)と結果(ユーモア)の関係に置くこともできよう」という。また、「あえていえば、ユーモアの技術的側面がアイロニーであり、アイロニーの情緒的側面がユーモアなのである」と言い換えてもいる。

こうとらえたうえで牛島は、「ドン・キホーテ」という作品について、「いかにも単純な<言葉のアイロニー>に始まって<状況のアイロニー>に、更には、作品全体に光被してその基調を決定している、<演劇的アイロニー>に至るまでの様々なレベルで(アイロニーが)活用されており、<ドン・キホーテ>一篇は、あたかもアイロニーの巨大な集積の観を呈している」と表現している。

ところで、このアイロニーが原因となって引き起こされるというユーモアとは、どんな様相を呈しているのか。

牛島はここで、読者に登場を願うわけなのである。ユーモアとは、アイロニーのテクストに読者が接することで、読者の中に喚起される精神状態をさすというのである。「つまり、テクストと読者の間の相互作用により、そこに結果としてのユーモアが生じるというわけである」

このことからわかるのは、牛島が、アイロニーを「ドン・キホーテ」というテクストに内在するものだと捉える一方、それによって引き起こされるユーモアとは、テクストとは一応離れた、外在的な要素だと捉えていることがわかる。

こうした理解に基づけば、テクストが意味を持つためには、読者の存在が必要となる。テクストはそれ自体では何らの意味作用も持たない。それは、読者との相互作用の中から、様々なユーモアを生じさせ、その限りにおいて、テクストとして生きた意味を持つということになる。

こうした立論がロマン派の文学理論と似ていることは、牛島自身が認めている。ハイネをはじめとしたドイツ・ロマン派がいかに「ドン・キホーテ」を称揚したかはよく知られているが、それは、文学と言うものを作家と読者の相互作用においてとらえようとした彼らの文学理論を証明するための、もっともふさわしい例題を、「ドン・キホーテ」が提供してくれるからに他ならない。

ここまでは、アイロニーとユーモアに関する牛島の説の紹介であるが、これを紹介したことで、筆者自身もそれに同意しているわけではない。アイロニーとユーモアに関する筆者自身の考察については、別の機会に紹介したいと思う。





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