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道化の文学としてのドン・キホーテ



高橋康也氏は「道化の文学」において、「ドン・キホーテ」を、エラスムス、ラブレー、シェイクスピアの系列に位置する道化の文学として位置付けている。ドン・キホーテは「ルネサンスが生み出した最後の道化」というわけである。その限りにおいて、「ドン・キホーテ」は近代文学の先駆けというよりは、中世・ルネサンスの民衆文化の延長上のものであるといわねばなるまい。バフチンがラブレーの作品について定義づけたのと同じような意味合いにおいて。

だが、「ドン・キホーテ」に描かれた世界は、ラブレーの世界に比べると生命の豊穣さに見劣りがするようだし、ドン・キホーテ主従の道化ぶりも、フォールスタッフのような天真爛漫さに欠けているといわねばならない。ドン・キホーテは最後にやってきた道化として、いささかくたびれた印象を与えるのだ。

そこで、氏はドン・キホーテ主従を、シェイクスピアの描いたリアと道化の組み合わせと比較することから始める。この二つの組み合わせは、出現した時期もほぼ同じだし(ドン・キホーテはリア王の翌年に現れた)、遅れてきた道化としての特徴を共有していると思われるからだ。

まず、どちらも狂った主人とその道化(たわけ)た従者の組み合わせである。どちらの主人も狂っているという限りで、世界の中心からはみ出ている。従来の道化文学では、中心に主人公が、その周縁に道化がいて、主人は規範(ノモス)を、道化は自然(フュシス)を代表していたわけだが、リアとドン・キホーテの世界では、この対立軸が曖昧化している。

つまり、主人が狂気を通じて道化化することによって、本来の道化が道化らしさを削がれてしまうわけである。リアの道化は理性を取り戻すことを余儀なくされるし、サンチョ・パンサも分別臭くなるのである。

他方で、リアとドン・キホーテとの間には決定的な違いがある、と氏はいう。ひとつは、ドン・キホーテが国王ではないという点、もう一つは、リアが途中から狂ったのに対して、ドン・キホーテはそもそもの始めから狂っているという点である。

神である痴愚神は別にして、ガルガンチュア父子も、シェイクスピア劇の主人公たちもみな王であった。道化と言うのは、この王に対立して、中心と周縁、ノモスとフュシス、秩序と混沌、生と死のコントラストを浮かび上がらせる役割をもっていた。ところがドン・キホーテは王でないばかりか、自分自身が道化的な性格を持つことによって、世界の中心であることから排除されている。

また、途中から狂ったリア王が、たとえば花の王冠を被って幼児のような狂態を演じることで、グロスターを深く悲しませるのに対して、ドン・キホーテははじめから狂っているために、その狂態は周囲のものの嘲笑を買うばかりなのだ。ドン・キホーテははじめから狂っている限りで、道化と異ならない存在になってしまっている。

そうした道化としてのドン・キホーテが小説の主人公であることに、氏は「ドン・キホーテ」の基本的な特徴を読み取っている。道化が主人公になった小説は、これが世界で初めてだというのである。

しかし、道化というものは、反秩序として、その対立軸としての秩序を前提としているものだ。つまり道化というものは、秩序を典型として、絶対と思われているものを相対化することに本質的な意味をもっている。通常、この秩序は主人公である王が担うべきものであった。道化は、その王との関係では、中心に対する周縁として、秩序を破壊し、相対化する役割を演じる。

それでは「ドン・キホーテ」において、道化が相対化すべき秩序はどこに見られるであろうか。

ドン・キホーテは風車を巨人と思い込み、街道の宿を城と思い込み、金盥を兜と思い込む。これらはいずれもドン・キホーテにとっては外的な存在として、それら固有の秩序を持っているはずだ。ところがそれらは、ドン・キホーテとのかかわりにおいては、妄想の産物と化してしまう。したがってその構図の中ではどこにも、固有の秩序も見られぬし、それを相対化する知的な展開も見られない。見られるのは、ドン・キホーテという狂った頭脳の中で展開される曖昧模糊とした妄想の世界だけなのだ。

そうだとしたら、「ドン・キホーテ」を道化というわけにはいかぬ。なぜなら、明確な対象を持たぬ対立はありえないし、対立のないところに道化のかかわる余地はないからである。

筆者などは、「ドン・キホーテ」を「道化の文学」として位置付けることには異存はないが、ドン・キホーテをあえて道化と設定する必要はないのではないかと思っている。ドン・キホーテを王と考えても差し支えはないのだ。ただしこの王は、モック・キング、つまり偽の王である。偽の王であっても、王であることには変わりはない。こう考えれば、モック・キングであるドン・キホーテと道化であるサンチョ・パンサが、片方が偽の秩序を代表し、片方がその秩序を相対化する、もともと偽であった秩序を裏返しにするわけだから、そこに現れてくるのが、まじめくさったものであったりすることもある、そのような錯綜し縺れ合った世界として、「ドン・キホーテ」の小説世界を受け取ることができるのではないか、そんな風に考えるわけである。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2012
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