知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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大江健三郎のドン・キホーテ論



大江健三郎は「ドン・キホーテ」を壮大なパロディの体系としてとらえる。この小説そのものが、本来は騎士道物語のパロディとして構想されたのであるし、小説の内部にも、牧人小説のパロディをはじめとして、多様かつ多面的なパロディが盛り込まれている。それのみではなく、相次いで展開される様々な物語が、それに先行する物語のパロディにもなっていると言った具合に、小説全体がパロディの入れ子細工のような観を呈している。

後篇のドン・キホーテは前篇のドン・キホーテのパロディなのである。また、公爵夫妻によって木馬の上に乗せられて散々になぶられるドン・キホーテ主従は、自分自身のパロディであるとともに、自分たちをなぶっているつもりの公爵夫妻を逆になぶることによって、つまり公爵夫妻を、パロディを演じている自分たちにとってパロディの共犯者としてしまうことで、彼らまでパロディの演技者にしてしまう。ことほど左様に、小説全体がパロディの集大成になっている、と大江はいうのだ。(「小説の方法」所収の「パロディとその展開」)

ところで、そのパロディという言葉の概念的な内包を大江本人がどのようにとらえているか、明示的には語っていないが、それが「繰り返し」であることは認めている。あることを繰り返すことによって、あるいは模倣して見せることによって、その当のものを相対化し、場合によっては格下げすることで、笑いの対象とする、それがパロディだという理解であろう。とすれば、繰り返しは一回でなければならない。二度目になされた繰り返しは、既にパロディとしてのエネルギーを失っているからだ。それ故、大江は次のようにいう。

「セルバンテスは、最初に完成したパロディの枠組みを繰り返すのではない。繰り返されたパロディは、それだけでパロディ本来の批評的ダイナミズムを失ってしまうはずだが、セルバンテスがそのような停滞におちいることはない。
「次々に新しいパロディの仕掛けが始動して、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの二人組を油断のならぬ新鮮さに保つ・・・このような不断のパロディ化が、この作品の読み手の想像力をつねに活性化してやまぬのだし、読み手が現代の人間であることと、その活性化の力は矛盾しない」

パロディ化の手法には、単に現実に起きたことを再現して見せる(繰り返して見せる)という単純な方法から、アイロニーを通じて価値を相対化したり、辛辣な批評の対象とするような複雑な方法まで、多岐にわたるものがあるが、大江がとくに注目しているのは、ロシア・フォルマリストたちが「手法の露呈化」と呼んだものだ。

「手法の露呈化」とは、これは事実ではない、事実ではないことを語っているのだ、ということを明らかにしながら記述していく書き方のことだ。

大江が引用している木馬のシーンでは、尻に火をつけられたサンチョ・パンサは、自分が天空から見たということを得意げに語るが、読者はあらかじめ、それが事実ではないことを知らされているので、彼の言うことはまったくナンセンスだということがわかっている、わかっていながら、サンチョの言葉には哄笑せざるを得ない、この読者を「せざるを得なく」させるのが、「手法の露呈化」の効用だというのである。

このシーンの場合には、パロディの条件である先行する出来事がない。それでもこれがパロディとして通じるのは、手法の露呈化のためである。

読者はあらかじめ、それが事実ではないと知らされている。その事実ではないことを、サンチョはあたかも事実であるかのように語る。そのサンチョの語りは、サンチョをからかっているつもりの公爵夫妻を逆にからかう効果をもたらす。その効果が、このシーンをパロディ化させるわけなのだ。

「繰り返し」としてのパロディが、既に知られていることを別の光から眺め直すことだとしたら、手法の露呈化によるパロディは、これから知られるべきことが、知られるに相応しい内実を伴っていないことを確認する作業なのだと言えよう。





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