知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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サンチョ・パンサの道化知


ドン・キホーテにとって切っても切れない関係にあるサンチョ・パンサを、どのようにとらえるかについては、様々な考え方がありうる。ということは、サンチョ・パンサという人物像が、一筋縄では片付かない複雑さを帯びている、ということを意味している。サンチョ・パンサといえば、単純で騙されやすく、思慮の浅い田舎者だと思われがちだが、どっこい、そうは問屋が卸さないのである。

一番説得的なのは、サンチョをドン・キホーテの引き立て役と見る見方である。ドン・キホーテは反狂人として、奇想天外なことばかりしでかす。しかしその奇想天外な行為も、ドン・キホーテという人物だけに即して見せられれば、馬鹿馬鹿しいこととして、話はそこで終わってしまうだろう。どんな狂気も、孤立して、封印された状態では、殆ど問題にならないのである。それが問題になるのは、狂気を狂気として顕在化させ、それを人々に向かって知らしめる人の存在が必要である。サンチョ・パンサはこの、紹介者としての役割を演じているとするのが、この見方の内容である。

この見方によれば、ドン・キホーテは、騎士道物語のパロディとして、それ自身が道化的な存在である。サンチョの主な役割は、そんなドン・キホーテの道化性をあぶりだすことである。サンチョは、主人のドン・キホーテが失策をやらかすたびに、それが世の中の軌道を外れた行為なのであり、したがってそれを演じているドン・キホーテは、道化になっているのだと気づかせようとする。そういうことをしているサンチョはだから、ドン・キホーテの狂気に対立した、世間的な常識を体現した存在ということになる。ここから分別臭い世俗知の体現者としてのサンチョ像が現れる。彼の発する夥しい格言は、こうした世俗知のシンボルなのである。

こういっては、サンチョが面白みに欠けた人物だという誤解を与えかねない。実際は、読者が一番知っている通り、サンチョは面白みに欠けた俗物どころか、我々読者を抱腹絶倒せしむる愉快な男なのである。

ドン・キホーテとサンチョの関係は、日本の漫才におけるボケと突っ込みの関係に似ているといえるかもしれない。ボケは文字通りの道化役だが、突っ込みの方も単純なアンチ・テーゼ役ではない。彼自身にも道化的な要素が無ければ、漫才は面白くならない。

漫才と「ドン・キホーテ」とでは、まともな比較にはならないが、サンチョ・パンサにも道化的な要素があるという比喩には使えるだろう。

サンチョ・パンサの道化的な性格は彼の風貌に現れている。彼はドン・キホーテとは対照的な体格をしている。背が低く、ずんぐりむっくりしていて、陽に焼けた赤ら顔をしている。背が高く、痩せていて、青白い顔つきのドン・キホーテとはまったく対照的だ。その外見からは誰しも、ドン・キホーテが常識人で、サンチョ・パンサの方が道化だと判断するだろう。

実際、ドン・キホーテは、話が騎士物語に及ばない限りは、いたって常識的な話し方をする人物なのだ。それが騎士道物語を連想させる事態に直面すると、スイッチが切り変ったように、常道を逸した行動を始める。そんな主人を、従者のサンチョ・パンサは、慌てた面持ちで見守りながら、その迷妄を正そうとする。しかし、正そうとすればするほど、ドン・キホーテの迷妄は深まっていく。それは、サンチョの繰り出す言葉が、ドン・キホーテの誤りを正すだけの理性に満ちたものではなく、むしろドン・キホーテの道化性を煽るような情動性に満ちていることによる。その情動性は、サンチョにも道化性があることを物語っている。

こう見れば、サンチョ・パンサはもう一人の道化なのだということになる。ドン・キホーテが非自発的で強いられた道化だとすれば、サンチョ・パンサは自発的な道化なのである。

道化の基本的な特徴とはなにか、については様々な議論があるだろう。ここではそれを、世界を相対化する作用だとしよう。つまり、秩序と反秩序、中心と周縁、聖と俗、高貴と卑賤といった、形式的な対立をすべて融解させるような作用のことである。

こうした考え方からすれば、この小説の中での真の道化はサンチョ・パンサの方だということになる。というのも、ドン・キホーテが体現しているのは、相対化の精神ではなく、絶対を目指す精神なのである。ドン・キホーテが体現しているのは、騎士道精神なのであり、その騎士道精神とは、中世的な世界観そのものを表しているという点で、絶対を目指す精神であるといえるのである。ただ、ドン・キホーテはそれをパロディと言う形で表した。そのため、彼は道化となる運命を負わされたのである。

それに対して、サンチョ・パンサが体現しているのは、規範に対する自然、秩序に対する混沌、中心に対する周縁と言った要素である。その限りにおいて、サンチョは正真正銘の道化になることができる。彼は遠慮なく、ドン・キホーテの矛盾を突き、何もかもをひっくり返させて、ドン・キホーテを混乱の極まりの中に置き去りにする。ドン・キホーテは、狂ったリア王のように、道化に憐れまれながら、この世の地獄をさすらい続けるというわけなのである。

サンチョ・パンサがシェイクスピア劇に出てくる道化と違う点は、その素朴さだ。シェイクスピアの道化たちの多くは宮廷に仕える知識人の端くれであるし、したがって、皮肉れてはいるが一定の物腰をそなえ、言うところも理知的である。それに対してサンチョは、一介の田舎者であり、武骨そのものの振舞いをし、言うことと言えば、農民たちの中で言いまわされている諺や格言ばかり、決して理知的であるとはいえない。道化の知性を道化知というが、サンチョ・パンサの場合、その道化知は農民たちの処世知の延長なのだ。

ここで、サンチョが示したそうした道化知の一端を披露してみよう。

まず最初は、遍歴の騎士と旅に出たサンチョ・パンサがはじめて見聞することになった、あの有名な風車への突進の場面である。風車を巨人と間違えたドン・キホーテが風車に挑みかかったところ、当然のことながら、風車に跳ね飛ばされて痛い思いをする。それを見ていたサンチョはびっくりして、何を馬鹿なことをなさるかと主人を諌める。主人は、風車が巨人であるとして、なかなか自分の軽挙妄動を認めないが、そのうちに、巨人が魔法によって風車に変らせられたのだと言い張るようになる。

「総じて、いくさは何事よりも、一瞬の後を図り得ぬものじゃ。ことにな、わしの思案では、いや、たしかな事実じゃて。さきごろわしの書斎と書物を盗んでいった賢人フレストンめが、今また巨人を風車に変らせて、鬼畜退治の誉れをわしから奪い取ったのじゃ。わしに含む敵意じゃとはいえ、いまにみておれ、きゃつの妖術もこの剣の威徳に力を失う日が必ず来るをな」(正編第8、永田寛定訳、以下同じ)

主人のいうことを負け惜しみと受け止めたサンチョは、その負け惜しみに同情して見せる。ところがこの同情が、主人に対する愚弄の色彩を帯びていることは否めない。

「神様の御手におまかせすますべ・・・わしゃ、なにもかも、おめえ様が言わっしゃるとおり、信じますだ。けんど、もちっとしゃんとしなせえよ。半分倒れかけてみえるだからね・・・神様は知ってござるだよ。わしゃ、おめえ様がね、どこか痛えんだったら、いくらでも痛がってもらうが勝手だね。わしだったら、ちょっと痛えとこがありゃ、黙ってるはずはねえと言い切れるだ。遍歴の騎士の従士も、やっぱ、痛がらねえときまってなけりゃね」

こうした愚弄を通じて、サンチョは主人の愚かさを、さらに愚かなものに進化させていく。つまり、主人ドン・キホーテの道化ぶりを、白日にさらすわけである。

このような場面はいたるところにある。たとえば、宿屋の中でワインの皮袋を巨人と間違えたドン・キホーテがとびかかってめった切りにし、ワインが尽く漏れ出た場面を見たサンチョは、主人の間違いを指摘するのではなく、かえって主人の勇猛ぶりをたたえたりする。そうすることで、主人の道化ぶりをあからさまにするわけだ。

しかし、サンチョは主人以外の者、とりわけ主人を欺いて馬鹿にしようとしている連中に対しては、自らも道化となって、その連中をあざ笑うという高等な芸を演じることもある。

続編で登場する主要人物の公爵夫妻は、「ドン・キホーテ」の正編を読んだということになっていて、この世にもたぐいまれな遍歴の騎士主従を自分たちの城に招いた。その本意は、気の狂った騎士をなぶりものにして、退屈をしのごうというものだった。

公爵夫妻は、ドン・キホーテに様々な仕掛けするのであるが、その一つとして、木馬クラビレーニョがある。夫妻はドン・キホーテをそそのかして、幻術師の呪いにかけられた老婆を救うために、空飛ぶ木馬クラビレーニョに乗せられる羽目になる。サンチョは夫妻の企みを見て取って、なんとか逃れようとするが、結局主人と一緒に木馬に乗せられ、目隠しをされる。そのうち、夫妻の家来たちが、木馬が飛び上がったと囃し立てる。あたかも空を飛んでいる感じを出すために、ふいごで風を起こすという念の入れ方である。

しかし、冒険に始末をつけるために、木馬の尻に火がつけられると、木馬の腹に詰まっていた花火が大爆発を起こし、ドン・キホーテ主従はふっとばされてしまうのである。それを見ていた公爵夫妻が、腹をかかえて笑ったことはいうまでもない。

さて、サンチョの方は、心配していた通りひどい目に会わされた意趣返しに、公爵夫人に向かって、こんな風に報告する。

「わしはね、奥方様、わしの主人の言葉だけんど、火の層をとんでいるのがわかったんでがす。それで、ちょっとばかり目をあけてみたかったんだが、主人はね、目隠し取らせてくれろと頼んでも、許しちゃくれなかっただ。けんど、わしはどうも物好きでね、ことわられたりじゃまされたりすると、なおしたくなるたちだで、誰にも知らせず、うまうまとね、目にかぶさったきれの、鼻のねぎんとこをちいっとゆるめて、そこから地球を見下ろしましただ。すると、地球ぜんてえが芥子粒よりはでかく見えなんだし、そこに動いている人間もはしばみの実ぐれえに見えたでがす。わしらがその時どんなに高えとこを飛んでたか、わかっていただきてえでさ」(続編第41)

見られるとおり、サンチョは、夫人の悪ふざけを逆手にとって、夫人を嘲笑しているわけである。

ことほどかように、サンチョ・パンサは芸の込んだキャラクターなのである。





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