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存在の耐えられない軽さ:ミラン・クンデラを読む


ミラン・クンデラが「存在の耐えられない軽さ」を発表するや、大変な評判を呼んだ。それには題名が大きな働きをしたのだと思う。存在と軽さという組み合わせが意外だったからだろう。存在というのは抽象名詞であって、それが軽さと結びつくことは普通はない。軽さと結びつくのは物理的な意味での存在者であって、非物理的で抽象的な名辞である存在ではない。にも拘わらずクンデラは、存在を軽さと結びつけた。しかも耐えられない軽さと。

実際クンデラはこの小説を軽さと重さについての考察から始めているのである。クンデラは軽さと重さについての考察を、パルメニデスを引用しながら展開している。パルメニデスによれば、軽さが肯定的で重さが否定的だというのだが、この小説においては、事態は逆なようである。軽さは否定的なのだ。しかも耐えられない軽さに至っては、否定的であることを超えて、致命的なのだ。この小説には四人の男女が出て来るが、かれらの存在はみな軽さとして描かれている。耐えられない程軽い存在の彼らは、サビナという女性以外みな不慮の事故で死んでしまうのである。

サビナ以外の三人の男女は、トマーシュと彼の恋人テレーザ及びサビナの恋人フランツである。サビナはトマーシュとも恋人の関係にある。トマーシュは女を抱くのが好きで、生涯に250人の女と寝たと豪語しているほどだ。だからいつも女の匂いが体に染みついている。とりわけ女のデルタの匂いを髪の毛にまといつかせている。テレーザにはそれが耐えられない。彼女は嫉妬深い方ではないが、自分の隣に寝ているトマーシュが、他の女のデルタの匂いをまき散らしているのは耐えられないのだ。

小説はこの四人の身に起きた出来事を語るのだが、四人のうちトマーシュとフランツは、共通の恋人サビナを通じてつながっているだけで、直接のかかわりはない。それゆえ、トマーシュとテレーザ、フランツとサビナの関係が、それぞれ別々に語られる。トマーシュとテレーザは主にチェコに住んでいるので、チェコが舞台となって二人にかかわる出来事が進行する。二人がこの小説の中で生きているチェコは、1968年前後の時期のチェコである。1968年以前のチェコは共産主義社会のデストピアとして描かれ、1968年以後のチェコは、ロシアに占領された従属国として描かれている。その閉塞した社会にあって、トマーシュとテレーザの身の上には、息苦しい出来事が連続し、その挙句に二人は不慮の事故で死んでしまうのだ。

一方フランツとサビナはスイスを舞台にして愛し合う。ところが、あまりはっきりしない理由から二人は別れてしまい、サビナはパリを経由してアメリカに移住し、そこで画家として成功する。フランツのほうはカンボディアで起きている事態にコミットし、仲間の知識人たちと大行進部隊を結成してカンボディアへの入国を試みている最中に、タイ人の強盗に襲われて殺されてしまう。

サビナ以外の三人の死は、どれも降って湧いたようなもので、小説の進行の上でも必然性はない。偶然の出来事として描かれている。トマーシュとテレーザはこの小説の主人公といってよいので、彼らの死はクライマックスとなるべき性質のものだが、その彼らの死が、直接に描かれるわけではなく、サビナがトマーシュの息子からの手紙で知らされたという伝言のような形で触れられているだけだ。しかも彼らの死についての場面は、小説の半ばほどであらわれるので、どうも中途半端である。小説はかれらの死で終わるわけではなく、あたかも彼らの死が起らなかったような具合に、引き続き進行していくのである。

というわけでこの小説は、時間を無視して展開する。そういう点では、フォークナーの小説技法を想起させる。フォークナーと違う所は、小説の語り手が主人公以上に存在感を示していることだ。この小説は非常に饒舌に聞こえるのだが、その饒舌ぶりは主人公たちではなく、語り手が示すのである。その語り手の言葉として、Einmal ist keinmal というドイツ語が出て来る。一度しか起こらなかったことは、一度も起こらなかったと同然、という意味だ。トマーシュらこの小説の主人公たちの生涯は、それぞれ一度しか起こらなかったから、一度も起こらなかったと同然だ、と言いたいかのようである。実際かれらの生涯は、耐えられないほど軽い存在に過ぎなかったので、存在しなかったも同然だと言えるかもしれない。

トマーシュとテレーザにかかわる出来事は、共産主義体制下のデストピアの物語というふうに語られる。その中でもっとも刮目すべきは、トマーシュに接近してきた官憲の男が、トマーシュに密告を迫る場面だ。トマーシュは結局密告しないことになっているのだが、この挿話はクンデラ自身の体験に根差しているのではないかとの憶測を一部で呼んだ。その憶測は、クンデラ自身ある人間をスパイとして密告した過去があると言い立てたものだが、クンデラ自身はそれを、でっち上げだと言って強く否定している。この挿話以外にも、共産主義社会のデストピアぶりがいくつもさしはさまれ、そのなかにはカフカの世界を思わせるものもあるが、それについては別稿で触れたい。

この小説はしかし、政治的な意味合いの強い反デストピア小説にはとどまらない。トマーシュとテレーザの愛を中心とした愛の物語でもある。だがその愛の営みは、かれらの行動を通じて伝わってくるというより、愛についての語り手の饒舌から伝わって来るほうが大きい。語り手は実に饒舌なのだ。それについてクンデラは意識してそうしているようで、「私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である」と言っている。つまり語り手たるクンデラ自身の実現しなかった可能性を、登場人物にことよせて書くあまりに、饒舌にならざるを得ないと言いたいようである。

ともあれ、トマーシュとテレーザの死を知らされたサビナは、自分を過去と結びつけていた最後の綱が切れたように感じ、自分の身の上に落ちて来たのは、重荷ではなく、存在の耐えられない軽さだと感じたのだった。その軽さに耐えるようにして、彼女は墓地を散策する。墓地は彼女に安らぎを与えてくれるのだ。彼女が散策したフランスの墓地は、重い石で覆われていたが、それは死者が戻ってくるのをフランス人が好まないからだろう、とサビナは考える。こんな墓はチェコにはない。もしフランスで死んだら、石で覆われてしまうのだろうとも彼女は考えるのである。彼女のように、「一刻も立ち止まることのない女にとっては、闘争が終りになるという考えは耐えられないものなのである」

(テクストには千野栄一訳集英社文庫版を用いた)



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