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ソクラテスの弁明を聞くその三


次いでソクラテスは、自分に対して直接に訴求したものらに反論する。「メレトスという、善良な自称愛国者」たちである。彼らの訴求の理由は、「ソクラテスは犯罪人である。青年に対して有害な影響を与え、国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神のたぐいを祭るがゆえに」というものだった。それに対してソクラテスは、手の込んだ反論を展開するのである。

まず、ソクラテスが青年に対して有害な影響を与えているという主張への反論。これをソクラテスは奇妙なやり方で反論する。青年を善いように導く人とはどんな人かとメレトスに問い、そういう人はソクラテスを除くすべての人だという意見を導き出すのだ。その際のソクラテスの言い方が振るっている。君の話は、ヘラに誓って、たしかに結構な話だ、と言うのだ。ソクラテスは、何か重要なことを言う際に、神々の名を持ち出して、その名に誓うのが好きなのだが、その場合に持ち出される神々の名は、状況に応じて選択されるようである。この場合、ヘラの名を持ち出したのはどういうわけか。ここでソクラテスがメレトスに言っていることは、皮肉めいたことであるから、その皮肉めいたことをヘラにことよせるというのは、ヘラがあまり高く評価されていないということを意味するのか。

この直後にソクラテスは、ゼウスにも誓うのであるが、その場合には皮肉などではなく、真実が問題となっている。そのように重要な問題については、ソクラテスは神々の中の王、ゼウスを持ち出すのであろう。また、これより以前には、犬に誓う場面も出て来る。それは、自分自身が本当のことを言おうとするに際してのことであった。つまりソクラテスは誓いの証言者として、犬をヘラよりも高く評価していたということになろうか。

ともあれ、ソクラテス以外の人間はすべて青年を善いように導くというメレトスの意見に対して、ソクラテスは、「青年たちのために、もしただ一人だけが、これに害を与えて、その他の連中は、みな利益を与えるのだとしたら、それは何ともたいへん幸福なことになるだろう」と言って皮肉る。そして、もしメレトスも、人を良いように導くのであれば、ソクラテスをもそのように導けるはずだ、というニュアンスのことを言う。自分には、悪い影響を及ぼそうというような意図はないのだから、つまり故意にそうしているわけではないのだから、「このような不本意の誤りについては、こんな場所に引っ張り出したりしないで、個人的に会って、教え諭すのが、法なのだ」。そうソクラテスは言って、メレトスの主張の荒唐無稽さを強調するのである。

次いでソクラテスは、「国家の認める神々を認めるなと言って、ほかの新しい鬼神のたぐいを教えている」という非難に対して反論する。その反論の仕方も奇妙なものである。ソクラテスの主張の骨子は、メレトスはソクラテスが鬼神のたぐいを認めていると言っているが、鬼神もまた神ではないか。その鬼神を認めながら、神々を認めないと言うのは、自家撞着だ、というものである。「神を信じないはずの僕が、鬼神を信じているかぎりにおいて、また逆に神を信じているというのが、君の主張ということになるだろう」というわけである。

ソクラテスのこの主張には、かなりの無理がある。メレトスは、ソクラテスが一切の神を認めないと言っているわけではなく、国家の神を認めないで、鬼神のたぐいを認めているといっているのだから、別に矛盾はないわけである。それをソクラテスは自己撞着すなわち矛盾だといって批判するのである。

ソクラテスはまた、日輪や月輪が神だということについて、メレトスとの間でやりとりをし、メレトスがソクラテスを、「日輪は石、月輪は土だと主張している」と非難すると、それはアナクサゴラスの説のことで、自分はそんなことを主張していないと反論する。アナクサゴラスは、ソクラテスに大きな影響を与えたといわれる人物で、ソクラテスは彼の「ヌース」、つまり理性の説に大いに共感したわけだったが、ここで言及されていることは、アナクサゴラスの天体についての議論である。それによれば、太陽は火の通った真っ赤な鉄石塊であり、月は土でできていて人間の住める場所があるということになっていた。ソクラテスは、そういう説は、自分は認めているわけではないと言っているのである。

以上の反論を展開しながらソクラテスは、自分は信念に基づいて言動しているのであって、何一つ恥ずべきことはしていないと強調する。自分の言動は、自分一人の意図によるものではなく、神々によって課された使命なのだ。そう言って自分の言動を正当化する一方、そのことで人々に憎まれ、結果として殺されることになっても、自分は死を恐れない。何故なら死を恐れる理由がないからだ、とも言う。ソクラテスはそう言いながら、死についての、自分の考えを披露するのだ。この部分は、この対話篇の中でもっとも意義深いところである。

ソクラテスには生涯に三回、死の危険を冒したことがあった。ポチダイア、アムピポリス、デリオンに、それぞれ兵役に従事して出かけ、命をかけた戦いに臨んだのだ。そのことに誇らしく言及しながら、自分は死を恐れないと言う。「知を愛し求めながら、生きていかなければならないことになっているのに、その場において、死を恐れるとか、命ぜられた持ち場を放棄するとしたなら、それこそとんでもないまちがいを犯したことになるでしょう」。そうソクラテスは、自分がいかに死を恐れていないかについて、語るのである。

ソクラテスは言う、「死を恐れるということは、いいですか、諸君、智慧がないのに、あると思っていることにほかならないのです。何故なら、それは知らないことを、知っていると思うことだからです。何故なら死を知っている者は、だれもいないからです」。ところが人は死を恐れる。「それが害悪の最大のものであることを、よく知っているかのように」。しかし、それが最大の害悪であることを、だれが知ることができるだろう。何故なら、死を体験した者はすでに存在しないのであるし、存在している者はまだ死を体験していないからである。

この議論は、あのエピクロスの死についての議論を想起させる。エピクロスも又、人間は死を恐れる理由がない、何故なら生きている間は死を経験することがないのであるし、死んでしまった後では、死について考えたり怖れたりすることはなくなるからだ、と言った。エピクロスはヘレニズム時代に生きた人であり、ソクラテスよりはずっと後の時代の人である。そのエピクロスの説が、死についての議論が沸き起こるごとに参照されてきたわけだが、ソクラテスはそれよりずっと以前に同じようなことを言っていたわけである。

そこでさらにソクラテスは言うのだ。「わたしのほうがひとよりも、何らかの点で、智慧があるということを、もし主張するとなれば、わたしはつまり、あの世のことについては、よくは知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている点をあげるでしょう」と。その上でソクラテスは、自分は死を恐れないのであるから、何があっても、これ以外のことはしないだろうと言って、自分の生き方について胸を張るのである。




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