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スピノザ「エチカ」の方法論:演繹的説明原理


スピノザの主著「エチカ」を読むと、まずその独特の構成に驚かされる。全体は第一部の「神について」に始まり、5部に分かれているが、いずれの部も、定義に始まり、公理、定理、証明の連鎖からなっており、あたかもユークリッド幾何学の論文でも読んでいるような感じをさせられる。

これは現代の我々には奇異に写るが、スピノザ自身にとっては必然的な方法であった。なぜなら、世界とは神という実体そのものと同じものであり、その属性が我々の意識のもとに思考や延長として表れ、その特殊化したものが個別的な事物や観念としてわれわれの思考のなかにもたらされるのだから、この世界のうちには論証できないものはひとつもない。そしてその論証の方法として、演繹的な推論に増した方法はないのだ。

それにしても、この特殊な叙述形式は、我々現代人にとっては読みづらい。というのも、スピノザにとって必然的だったものを我々は必然的とは感じず、したがって基礎の危うい土台の上で展開される演繹的推論の連鎖に、まじめに付き合う気にならないからだ。

そのことを割り引いて読めば、内容そのものには無論、読むに耐えるものが多く含まれている。だから我々は、スピノザの演繹の必然性などは無視して、書かれていることをそれ自体として読み取ればよい。むしろ、定理や公理などより、注釈の部分にそのような卓見が多く見られるのである。

スピノザの演繹的推論の出発点をなすのは定義である。そこでスピノザは、扱おうとする対象について、それがどのような本質を有するかについて定義する。幾何学において、三角形とは三つの辺によって囲まれ、あるいは同じことだが三つの角を有する図形だと定義するようなものである。このように定義すれば、三つの角の和が180度になるとか、正三角形は同じ長さの辺からなるとか、もろもろの定理が論理必然的に導き出されてくる。

これと同じような手順を踏んで、スピノザは、実体としての神についての自分の考えを定義としてあらわし、それにもとづいて、世界についての自分なりの認識を、論理必然的に導き出している。そしてそれを読者にも信じさせようとしているのだ。

だがスピノザの同時代人は、この著作をスピノザの思うようには読んでくれなかったし、まして現代人の我々はそれ以上に、スピノザの推論を信じ込む気にはなれない。

それは何故か。

演繹的推論が意味を持つのは、定義の中に意味のある内容が含まれている場合だけだ。意味があるとは、我々は簡単に言う場合が多いが、実はなかなかむつかしい問題をはらんでいる。

たとえば法律が、人を殺せば死刑にすると書いてあるとすれば、これはそれなりに意味のある内容といえる。これを定義として前提にすれば、現実に殺人を犯したものには、三段論法の助けによらずとも、論理的に死刑にすべきとの結論がもたらされる。

ところが、神とは永遠にして完全なものであると定義するとして、それが現実に意味を持つのかどうか、我々にはそれを十全な明証性を伴って確信できるとは限らない。我々はそれをあやふやな定義、ないしは混迷した議論といわざるをえない場合もある。

三角形のような、幾何学な定義においては、図形の性質のうち誰もが反論し得ないような部分を選んでそれを定義に含めるから、そこから導かれる演繹的な推論は破綻することが少ない。

ところがUFOについて、それは地球以外の宇宙から来た生命体であると定義しても、それが実際に存在するかどうかは別の話だ。だからその定義に基づいて、UFOというものについて、その属性やら様態やらについてどのように演繹しても、我々は明晰かつ確実な表象をもつことができない。

誰もが納得できる事実とは、定義によって与えられるものではなく、経験によって確信されるものだということを、我々は知っている。石を現実に見たことがないものには、それをいかように定義しても、石についての正確な表象をもつことができない。

普通の辞書には、石とは岩の細かいものと説明し、岩とは石の大きなものと説明しているものが多いが、これはそもそも石や岩について読者が確固とした表象を持っていることを前提にしたものだ。そうでなければ単なる循環論法に過ぎない。

それと同じように、神をどのように定義したところで、我々が神についてすでに知っていることがなければ、我々は神についてそれ以上の表象をもつことはできまい。

それは論理によってではなく、パスカルが言うように、飛躍によって、あるいは啓示によって、我々のうちにもたらされるものだ。



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2008
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