知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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スピノザの人間観:自由と必然性


スピノザの人間観あるいは倫理思想のユニークな点は、人間の自由な意思を否定するところである。スピノザによれば、世界のあらゆる事柄は、それを全体としてみればひとつの必然性に貫かれている。どんな出来事も偶然におきることはなく、必然の糸によってつながれている。人間の起こす出来事もそうだ。たとえある人間が恣意にもつづいて行なったと思われるものも、その裏には必然性が貫徹している。

偶然と思われるものは、個物のおかれた制約によるのだ。個物は全体を知りえないから、必然の出来事も偶然起こったように感じるのである。だから個々の人間が、自分の行為を自由な意思に基づいて決定していると考えるのは、錯覚に過ぎない。

スピノザは次のように言う。

「自分は、自分の精神の自由な決意にしたがって、何かをしゃべったり、黙っていたり、その他等々のことをしていると信じているものは、目を開けながら夢を見ているにちがいないのである」(第三部定理2の備考:高桑純夫訳、以下同じ)

とはいえ、現実に生きている人間は、あることがらについて意思をもったり、衝動を感じたりするし、それに付随して自由やその反対の束縛を感ずることがある。だから自分の意思が自由であったり、制約されていると感じるのは夢を見ているのだといわれれば、多くの人は納得しないだろう。

このギャップを埋めるためには、スピノザが人間をどうとらえているかを、見なければならない。

スピノザは、個々の事物には自己の存在に固執するように努める性質があると見ていた。なにやら目的論を連想させもするが、要するに物質の慣性の法則をスピノザ流に言い換えたものと受け取ればよい。外的な事情が作用しない限り、物質はその存在をあるがままに維持し続けるという意味である。

このことを人間に即して表現すると、次のように言い換えられる。

「何人も、或る事物のために、自己の有を維持しようと努力しはしない。」(第四部定理25)

逆説的に表現されているが、要するに人間も物質と同じように、自己の存在に固執し、自分が持続する限りその存在を維持するように努めるといっているのである。

「その努力が、精神だけのものであるならば、私たちはそれを意思と呼ぶ。それに対して、もしそれが、精神にも身体にも関係あるものなら、衝動と呼ばれるのである。衝動は、それゆえ、人間の本質にほかならず、その本質の本性から、衝動を保持するに役立つものが、必然的に生じてくる。そして、それによって人間は、衝動の要求するところを行うように決定されているのである。」(第三部定理9の備考)

意思といい、衝動といい、人間が自己を肯定し、それを維持するために、必然的に組み込まれた作用だというわけである。だから我々の意思は、我々自身の想念の中では自由に見えても、実は存在を維持するために必然的になされる行為なのだ、こうスピノザはいいたいのだろう。

だがそれでも我々人間は、ひとつの決定をなすときに、たとえそれが必然に迫られてなすものであるとしても、そこに自由や束縛の観念を伴うことがある。だから自由な意思にも存在の余地があるのではないか。

この疑問に対してスピノザは、人間の様態に現れる能動と受動とに言及し、自由と束縛とをそれらに関連付けることによって、回答を与えようとしている。

「我々が、それの十全原因であるような何物かが、我々のなかもしくは外に生ずる場合、換言すれば我々の本性によってのみ明晰かつ判明に理解されうるような何物かが、我々の中もしくは外に我々の本性から生ずる場合、私はそれを呼んで、我々は行為する、という。それに対し、我々が、それの単なる部分原因に過ぎないような或る物が、我々の中もしくは外に我々の本性から生ずる場合、私はそれを、我々は何々される、と呼ぶ。」(第三部定義2)

能動とは外部の力の作用を受けず、人間が自分自身の力のみによってなす行為であり、受動とはその反対に、外部の力に作用されてなす行為であると言い換えられる。能動には精神の能動もあり、身体の能動もある。精神の能動は理性と呼ばれ、身体の能動はのびのびとした自然な運動をさす。反対に精神の受動はパッションと称されるような心の情動をさし、身体の受動は心の命令によってなされる運動をさす。

にスピノザにあっては、究極的な能動的精神は理性そのものと考えられている。それはある意味で精神の自由な動きでもある。この自由な精神がなにものかを意思するとき、そこに自由意志とよばれるものが成立するように思われるが、それはスピノザにとっては、精神が外部のものによってではなく、自分自ら意思する限りにおいてそう見えるに過ぎない。その自由なるものは、世界全体の必然性の前では、仮象に過ぎないのである。

スピノザはこう考えつつも、精神の自由に一定の活躍の余地を与えた。精神は人間が世界の一部として、言い換えれば神の表れとして行為する次元においては、必然性に貫かれているが、個々の人間の観念の中にあっては、一定程度自由であったり、その反対に束縛されていたりする。

人間にとっての善や悪、愛や憎しみ、喜びや悲しみといったものは、世界の一部としての人間の次元ではなく、個別的な存在者としての人間、いいかえれば主観性の局面において意味を持ってくる。主観性の相においては、人間は自由にかなうものを善とし、そこに喜びを感じ、愛を抱く。逆に自分を束縛するものを悪とし、それに悲しみや怒りを感じ、憎しみを抱くようになる。

こうした感情は個人の内部におきるものとしては矮小なものにすぎない。だが愛が神に向けられ、そこに喜びと慰藉を感ずるとき、人間は単なる個別的な存在としてのあり方を超え、神と一体化することができるようになる。

このようにスピノザは、全体から出発して個別性へと下降しながらも、その個別性の中から再び全体としての神に向かう回路を設けている



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2008
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