知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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スピノザの永遠


スピノザの永遠について考える。まず、スピノザの神はキリスト教が教えるような人格神ではなく、宇宙の存在そのものと不可分なもの、あらゆる事象の根拠となって、しかもその事象のうちに顕現しているものであった。この神は理念的には必然性をあらわし、存在性格としては永遠性という形をとる。だから我々が神について想念するとき、我々は永遠の相の下に世界を見ることになる。

ところで永遠とは何か。普通我々は、永遠を時間と関連付けて考える。一つには始めも終わりもない無限の時間といったものがある。それは過去、現在、未来からなる線的な時間の流れを前後に無限に引き延ばしたものといえる。反対にこうした時間の流れを超越した無時間的なものを永遠と考えることもあるが、これも時間に関連付けて永遠を定義していることに変わりはない。

しかしスピノザが考える永遠は、こうした時間の観念とはかかわりがない。そもそもスピノザは時間というものを非実在的なものと考えていた。したがって過去あるいは未来としての出来事にかかわることは、理性が関知すべき事柄ではないと考えていた。出来事は常に現在としての出来事であり、過去とか未来とか呼ばれるものは人間の表象の中にしか存在しない。

こうした考えからスピノザは、未来に対する希望とか恐怖とかいった感情を軽蔑する。それは必然性に対する我々の無知から起こることなのであり、我々は無知のゆえに未来を変えられると思ったり、逆に恐れたりするのだ。

生起するものはすべて、必然性に基づいて生起する。そこには偶然はなく、したがって人間が恣意的に介入できる余地はない。

この必然性は時間の流れに従って継起するのではなく、神の存在の中であらかじめ決定されているものだ。それは時間の流れとは無縁であり、時間を超越している。この超越した必然性のあり方を表す言葉が、スピノザのいう永遠なのである。

スピノザはいう、「永遠性によって、私は、永遠な事物の定義だけから、必然的に出てくると考えられるかぎりの存在そのものを理解する。

「なぜといって、かかる存在は、事物の本質と同じく、永遠の真理と考えられるから、まさにそれゆえに、たとえば、持続に始めや終わりがないと考えても、持続または時間によって説明されえないものだからである。」(エチカ第一部定義八:高桑純夫訳)

事物の本質が時間を超越しているように、必然性も時間を超越している。そこには以前も以後もない。あるのは現在だけである。そしてこの現在のうちに顕現している必然を、スピノザは永遠というのである。

この考えはアウグスティヌスの時間論に似たところがある。アウグスティヌスはいわば入れ物としての時間の中で出来事が生起するのではなく、出来事の生起が人間によって時間として理解されるのだといった。だから厳密な意味で存在しているのは出来事が生起しているその現在だけなのであり、我々が過去と呼ぶのは過ぎ去った現在を、また未来と呼ぶのは想定上の現在を意味しているに過ぎない。

スピノザがアウグスティヌスと異なるところは、世界の存在を一瞬のうちに捉えようとするところにある。必然性は無時間的なものなのであるから、それには以前もなければ以後もなく、およそ時間的な契機といったものの入り込む隙がない。おそらく神は宇宙を、一瞥で捉えることができるに違いないのだ。



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2008
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