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スピノザ「知性改善論」を読むその二:想念的本質と形相的本質


「知性改善論」の本論に入る前にスピノザは、この小論の最終目的である人間精神と自然との合一の認識に至るために必要な最良の知覚がどのようなものか、についての考察をする。ここでスピノザが知覚と言っているのは、認識というほどの意味である。だから最良の知覚とは最も信頼できる(正しい)認識というような意味に用いられている。その正しい認識を得るための条件を確認したうえで、知性改善のための方法を論じようというのである。

そこで知覚が問題となるが、スピノザはすべての知覚の様式を次の四つに分類している。①伝え聞き、あるいは何らかの、いわゆる約束上の記号から得られる知覚、②あやふやな経験、いいかえれば知性によって規定されていない経験から得られる知覚、③事物の本質が他の事物から結論されはするが、ただし十全な仕方ではないような場合の知覚、④事物がその本質だけによって、もしくはその最近原因の認識をつうじて知覚される場合のそれ

これらのうちスピノザが最良の知覚として、知性改善のためにもっぱら依拠すべきだとするのは第四のものである。このものに限り、「事物の十全な本質を掌握し、しかも誤謬の危険がない。だから何よりもこの様式が採用されなくてはならない」とスピノザは言うのである。

知覚の第四の様式によって得られるものは、堅固でゆるぎのない真理である。それは知性の本有の力によってもたらされるのであるから、なにひとつ不純なものを含まない。だからわれわれの認識の基礎となりうる。これを基礎として、その論理的な帰結としてもたらされる知覚は、それもまた堅固でゆるぎのない真理といえる。何故なら論理的な因果関係にあるものは、原因となるものが真理ならば、その結果もまた真理であるからである。

スピノザは、世界についての認識を、それは人間と自然との双方にわたる認識なわけだが、その認識を堅固な前提の上に構築したいと考えた。それにはまず、それ自体が真理であるような明確な観念を獲得し、その観念を原因として、その論理的な帰結を得るようにする。そうすれば得られた論理的な帰結も真であることが保障される。さらにそれを基にしてさらに別の論理的帰結を得る。その帰結もまた真であることが保障される。この手続きを次々と繰り返していけば、やがては世界についての十全な認識に達することができるはずだというのが、スピノザの基本的な考え方だったのである。

このような考え方を、スピノザは次のように表現している。「知性もまた、まず自らの本有的な力によって知性的な道具を自分のために作り出し、これによって別な力を獲得して別の知的作業に向かい、この作業からまた別の道具、つまり探索の歩みをもっと先までおし進める能力、を獲得していく。このように一歩一歩前進していって、ついには知の絶頂に達することになるのである」

スピノザは、こうしたやり方を縦横に駆使して、人間と世界との究極の姿を認識し、それを「エチカ」という書物の中で展開して見せたわけである。

ここでスピノザは、真の観念とはどのようなものか、について踏み入った考察を行っている。真理とは真の観念と別のものではない、というのがスピノザの考えである。正しい世界認識が真理によって支えられねばならないとすれば、真の観念についての正しい認識を持つことが必要だ、そうスピノザは考えて、真の観念とはどのようなものか、あらためて取り上げるのである。

スピノザは、真の観念は、観念される当のもの(対象)とは異なったあるものである、という。たとえていえば、円と円の観念とは全く別のものということだ。この場合、円と呼ばれるものは、円そのものとしてわれわれが思い浮かべる表象であったり、あるいは目前に実際に円として現前しているもののことを言う。それに対して円の観念とは、円の本質についての定義のようなものである。

スピノザはまた、想念的本質と形相的本質という区別をする。両者とも「本質」という言葉がついているから、いずれも観念を意味する言葉だ。円についていえば、円そのものと円の観念とがあり、その円の観念に想念的本質と形相的本質があるということだろう。しかしそう言われても、この二つの観念の区別は、かならずしも明らかではない。スピノザは、「確実性とは想念的本質そのものにほかならない」と言い、「想念的本質を感知するその仕方が確実性なのである」といっているから、想念的本質とはなにか具体的な表象を伴なったものであり、形相的本質は想念的本質をもとに形成された抽象的な定義のようなものと考えているふうに伝わってくる。

このことは、「観念が想定的にあるあり方は、その観念される当のもの(対象)が実在的にあるあり方と同じである」といわれていることからも裏付けられる。また、想念的本質は形相的本質に全面的に合致するともいっているが、このことは、具体的な対象の表象からそのものの形相的本質、つまり抽象的な定義が生じるということを意味しているのであろう。

そこでもう一度「真の観念」という言葉に戻れば、これはどうも想定的本質と同じだと考えてよいようである。想定的本質は具体的な表象を伴なう。ということは、対象が現前しているということだ。対象の現前は、そのものの実在性を基礎づけるものであるから、真の観念とは実在的な観念ということになる。つまり実在する世界にその基礎を持つような観念のことである。スピノザの世界像は、真の観念によって基礎づけられるから、あくまでも実在的な世界であるということができる。

一方、形相的な本質には、かならずしも実在性を伴なわないものもある。たとえばフェニックスという生き物について、それの形相的な本質は認識されるけれども、しかしその本質には実在性はともなわない。我々はフェニックスが空想の所産であって、実在しないことをよく知っているのである。だから、形相的な本質だけを、世界認識の基礎とするわけにはいかない。たしかに世界認識は、人間の認識のあり方からして、形相的本質の連鎖として理解されるのであるが、その形相的本質は、それ自身では実在性の根拠を持っていないから、それが有意味であるためには、想念的本質によって基礎づけられなければならない、そうスピノザは考えたのだろう。かれが観念に想定的本質と形相的本質の区別を持ち込んだのは、そういう事情によるものだと考えられる。




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