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スピノザ「知性改善論」を読むその四
:誤謬について


虚構の観念に続いて虚偽の観念が検討されるが、スピノザは、虚偽は誤謬であると言っている。虚構もまた誤謬であることは明かだから、虚構と虚偽を分ける相違点が問題となる。その相違点をスピノザは、虚偽の観念が「承認を予想すること」だと言う。どういうことかというと、ある表象について、それが虚構の場合には、その原因となったものを意識しているが、虚偽の場合にはそういう意識がないということのようである。その事態をスピノザは、「眼をあけながら、すなわち目覚めながら、夢を見ているのと殆ど変るところはない」と言っている。つまり虚構は虚構されるものについて自覚的だが、虚偽の場合にはその自覚がなく、無意識のうちに誤謬をおかしているということらしい。虚構は意識的な誤謬、虚偽は無意識的な誤謬ということか。

この相違点を除けば、虚構と虚偽とは同じく誤謬として、それへの対処方法はだいたい共通していると考えてよい。すなわち、虚構も虚偽も、その本質が認識されているある事物の存在、あるいは本質についての誤謬なのであるから、いずれも共通した方法を用いて、これらの誤謬を回避すべきだし、また回避できるとスピノザは言うのである。

まず、事物の存在についての誤謬を回避する方法。これについては、二つの場合があるとスピノザは言う。一つは、知られる事物の本性が必然的な存在を予想するもの(神)であれば、その事物の存在に関して誤ることはありえない。なぜなら神という観念は、その属性として存在を含んでいるから。こう言うことでスピノザは、存在しない神というのは形容矛盾だと言いたいのであろう。もう一つは、神以外の存在については、その存在の必然性とか不可能性とかについて、十分な注意をすれば、誤謬に陥ることを回避できるということになる。

次に本質についての誤謬。これについても、虚構のところで述べたことがそのまま適用できるとスピノザは言う。本質についての誤謬は、基本的には対象についての混迷した知覚から生じるのであるから、混迷していない明晰で判明な知覚に心掛ければ、誤謬に陥ることはない。ところで我々の表象は、外的な対象に直接的な起源を持つものの他に、知性そのものの働きに起源を持つものもある。こういうタイプの表象については、ある表象が真であれば、そこから論理的に帰結されるものも真であることになる。論理的というのは、表象に含まれているもののみを前提に推論されるということを意味する。そういう手続きを演繹というが、演繹とは前提に含まれている要素だけを用いて、結果を導きだすことをいうのである。

こういう次第であるから、神の観念が真だとすれば(当然そうなのであるが)、神の観念を出発点として、そこから演繹する形でさまざまな事柄を説明していけば、われわれは世界についての誤りのない認識に達することができる。そうスピノザは言いたいのだろうと思う。実際スピノザはそれを「エチカ」で実践して見せたわけである。

次いで疑わしい観念が検討される。疑わしい観念とは、あきらかな誤謬ではないが、その真であることに疑惑が生じるような観念のことである。疑惑が生じるのは、疑惑を持たれる事物そのものによってではない。その事物の観念に別の観念がかかわるような場合に生じるのであるが、その場合でも、その別の観念が明晰・判明であれば、疑惑までには至らない。疑惑に至るのは、その別の観念が不明晰で混迷している場合である。そうした観念が、疑惑を持たれる当の観念の真であることに疑念を抱かせるのである。

疑惑とは、ある対象の知覚をめぐっての肯定または否定をめぐる心の未決状態だともスピノザはいう。そういう未決状態を、混迷した観念が混乱させることによって、疑惑の念が生じるというわけである。

以上に述べたところの虚構、虚偽、疑わしい観念が、真の観念の対立物として、真の観念の成立を妨げるものであることをスピノザは確認する。そうしたうえでスピノザは、これらの観念をもたらすものは想像力だと言っている。人間は想像力というものを持っているおかげで、誤謬に陥ったり疑わしい観念を持つようになるのだというわけである。ところでスピノザは、想像力は知性とは別のものだと見ている。なぜなら、想像力とは記憶にかかわるものであるが、記憶はその反対の忘却同様、知性とはかかわりがないからだ、とスピノザは言う。なぜそうなのか、その理由をスピノザはわかりやすくは説明していない。とにかく想像力は知性とはかかわりがないので、虚構とか虚偽とか疑わしい観念というものも、知性とはかかわりがなく、ただ対象についての「偶発的でばらばらの感知に由来する」と言うのである。

だから、「想像力と知力を区別しておかないと、想像しやすいもののほうをわれわれにとってより明晰であると想い、想像するところのものを理解すると想ってしまう。そのために、後にすべきものを先にしてしまい、こうして進展のための正しい秩序を転倒することになり、またものごとを正確に結論できなくなる」とスピノザは強調するのである。

スピノザはまた、言葉も想像と並んで誤謬の原因になると言っている。スピノザによれば、言葉はいくらでも観念を虚構できる。だから言葉について細心の注意を払わないと、誤謬に陥りやすいというのである。もっとも言葉についてのスピノザの言及は、ことのついでといった具合で、深い分析にはなっていない。




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