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スピノザ「知性改善論」を読むその五
:真の観念について


知性改善のための方法を論述する本論の第二部は、真の観念をその他のすべての知覚(観念)から区別し、精神をその他の知覚から護ること、を論述した第一部に続いて、未知の事物がこの規則に則って知覚されるように規則を敷くことについての論述にあてられる。ここで「未知の事物がこの規則に則って知覚される」というのは、どんな事物についてもその真の観念を持つべきであり、その他の知覚、すなわち虚構、虚偽、疑わしい観念に惑わされてはならない、ということを意味する。

そこで、いかなる事物についても真の観念を持つためには、「明晰で判明な観念を、つまり純粋精神から~身体の偶運的な運動からではなく~つくられる観念をもつ」ことを目標とすべきである。次いで、「一切の観念を一つの観念に還元するため、われわれはそれらの観念を、われわれの精神ができる限り自然の形相性を、その全体に関しても部分に関しても、想念的に再現することになるような仕方で、連携し秩序づけるように」しなければならない。ここでいきなり「一切の観念を一つの観念に還元する」という表現が出て来るが、これは世界をある一つの究極的な原因に遡って説明するということを意味する。その究極的な原因とは、スピノザにとっては神をさす。また、形相的と想念的という区別が出て来るが、これはすでに形相的本質と想念的本質の区別として論じられていたものである。形相的とは、事物の本質についての抽象的・普遍的定義のようなものであり、想念的とは事物の本質的な姿を、抽象的な形ではなく、具象的な形で、つまり現前化という形で見たものである。

スピノザによればあらゆる事物は、それ自体の本性によって理解されるものと、その存在のための原因をほかの事物に求めるべきものとの二つに分かれる。世界にあるすべての事物は、この二つのうちのどちらかなのである。この二つのうちの一つ、すなわちそれ自体の本性によって理解されるものは、自分自身に原因を持っているのであり、それゆえ自己原因によるものと言える。それは神のことである。したがって、スピノザにとってあらゆる事物は、神とそれ以外のものという具合に区別される。神は自己原因であり、それ以外の事物は他に原因を持つものである。その原因を遡って行けば、神に至ることは論理的な必然である。スピノザにとって神とは、論理的にいって必然的な存在なのである。なぜ神が存在なのか。神の概念には存在という属性が必然的に含まれているからである。存在という属性を持たないものを神と呼ぶことはできないのである。

スピノザは、抽象概念からなにごとかを結論することは絶対に許されないと言っているのであるが、それは神もまた抽象的な概念ではなく、実在的なものだと考えているからであろう。抽象的な概念とはスピノザによれば、単に知性のうちにあるにすぎず、実在の世界にあるものと混同してはいけないということになるが、神は単に知性のうちにあるものではなく、実在するものなのである。スピノザはまた、発見の正しい道は、与えられた定義からもろもろの思惟を形成していくことだとも言っているが、神は最初に与えられるべき定義の内実なのである。神という確固とした基礎を踏まえれば、世界についての十全で誤りのない認識を得られる、というのがスピノザの信念であった。

ところでスピノザは、真の観念とは明晰で判明な観念のことであるといい、そういう観念から出発すれば、あやまりのない推論の積み重ねができるというのであるが、神の観念は果たしてそういうものだろうか。そこで神についての定義をスピノザがどのように考えていたかが問題となる。その定義をスピノザは無論しようとするのだが、それは次のようなものである。

スピノザは、神の定義をする前に、神以外のもの、すなわち創造されたものの定義について、①そのものの最近原因を包蔵しなければならない、②事物の概念すなわち定義は、それだけで、他のなにものとも結合されないで観られても、そこからその事物のすべての特性がことごとく結論されうるようなものであること、③すべて定義は肯定的なものでなければならぬこと、という条件を上げたうえで、神の定義に求められる条件を次のように列挙する。

①一切の原因を排除すること、いいかえれば自らを説明するために自らの本質以外のものを何ものも要しないこと、②ひとたびその事物の定義が与えられたならば、もはや、その事物が存在するもかどうかという疑問の余地を残さないこと、③意味内容の上で形容詞にされることのできるような実名詞をもたないこと、いいかえると、その定義はなんらかの抽象的な名詞によって説明されてはならないこと、④その定義からはその事物の特性がすべて結論されるのでなければならないこと。

ここでスピノザが「事物」と言っているものが神なのであるが、その神の定義の条件がここでは述べられており、神そのものの定義が述べられているわけではない。

以上の議論は、「明晰で判明な観念を、つまり純粋精神から~身体の偶運的な運動からではなく~つくられる観念をもつ」ことに対応するものである。次いで「未知の事物がこの規則に則って知覚されるように」保証するための規則が問題となるが、これについてスピノザは次のように説明する。

「われわれにとって何にもまして必要なことは、すべてわれわれの観念はこれをいつでも自然的な事物、すなわち実在的な有、から導出し、できるかぎり原因の系列に則って一つの実在的な有から他の実在的な有へと進むべきことである。だから抽象的で普遍的なものに移行することがあってはならないのであって、すなわち、こういうものから実在的なものを結論したり、あるいは逆に、そうしたものを実在的なものから結論したりしてはならないのである」

もっともここで実在的な有の系列といっているものは、個物のことではなく、確固永遠な事物の系列のことである。可変的な個物の系列をくまなく探索することはわれわれの有限な認識能力では不可能なことだ。それに対して確固永遠な事物の系列なら、われわれは理念的な形で捉えることができる。そうして最終的にたどり着くのが神の観念であることは、十分に予想される。したがって議論のこの部分は、神の観念を定義するための準備のようなものと考えてよいわけである。

そこでいよいよ、万物の最終原因たる神の定義という課題が前面に出て来るのであるが、それについては、すなわち「もしわれわれが万物のうちでの第一の事物を探索しようと欲するなら、われわれの思惟をそこへ導くところのある根拠がぜひとも与えられなくてはならない。次いで、方法とは反省的意識そのものなのであるから、われわれの思惟を導くべきこの根拠とは、真理の形相を構成するところのものの認識、及び、知性とそのもろもろの特性と力の認識、以外のものではありえない。この認識が獲得されたら、われわれは、われわれの思惟をそこから演繹するところの根拠を持ったことになり、また、それによって知性がその力量の許すままに~とはいっても知性の力に比例してだが~永遠な事物の認識にまで至ることのできる道を持ったことになる」

以下スピノザは、知性のもろもろの特性についてこまかく説明し、われわれはそうした知性の特性をわきまえながら、事物の原因の系列を遡ってゆき、ついには神の定義にこぎつけられるだろうと考えるのである。スピノザにとっての神とは、知性によって認識されることが可能な、というよりそれ以外の形では把握不可能な、合理的な事物なのである、ということが、以上の議論からは強く伝わって来る。このことからスピノザの神についての議論は、理神論の典型と言われるわけである。その理神論の体系は「エチカ」において展開されるであろう。




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