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スピノザの「エチカ」について


スピノザが「エチカ」を書き始めたのは、「知性改善論」を書いている最中だった。「知性改善論」の執筆を中断して「エチカ」に取り掛かったのには、それなりの動機があったようだ。「知性改善論」は、よりよい認識を実現するための方法論的な考察であったのに対して、「エチカ」のほうは倫理的な、つまり世界観にかかわる考察である。スピノザにはだから、自分の世界観なり倫理的な立場を至急明らかにする必要があったのだろう。

「エチカ」は特異な書物である。それはスピノザの世界観を展開して見せた書物なのであるが、その世界観の展開をスピノザは、幾何学的な方法を以て実行する。幾何学というのは、図形の性質についての学問だ。図形の性質というのは、定義によって決まる。たとえば、直線とはその上にある点について一様な線である、という具合に直線を定義する。すると、任意の二つの点を結ぶ直線があるということになる。また、そうした直線の性質から、同じ平面上にあって決して交差しない二つの直線を平行線という、という具合に次々と展開してゆく可能性を、幾何学は対象としている。

このように定義というのは、ゲームの規則のようなものである。規則に当てはまる限りは、どんな結論も許容される。逆に言えば、ゲームによって生じるあらゆる事態は、規則に合致しないことには無効である(ルール違反である)。したがってどのように規則を定めるかが、ゲームにとっては根本的な前提となる。それと同じように、幾何学の場合にも、定義に含まれている前提にもとづいて、図形についてのさまざまな主張が展開されるのである。

定義はゲームのルールのようなものだから、その定め方は任意だと思われがちだ。実際スポーツのルールなどは、定め方に制約はない。基本的には任意である。しかし幾何学の場合には、対象は図形であって、図形とは自然界を反映している限りにおいて、やはり一定の制約はあるようだ。自然の形に反する図形を幾何学の定義に含めるわけにはいかない。また形以外の要素を定義に持ち込むわけにもいかない。たとえば色を図形の要素にすることは、幾何学的には何の意味ももたない。

幾何学の応用問題を解くのは、なかなか楽しいことだ。なかには楽しく思わない人もいるようだが、そういう人は、頭を使うことに慣れていないからで、日頃頭を使うことに慣れており、しかもそれを楽しんでいるような人は、幾何学の応用問題を解くことに悦びを感じるはずなのだ。それは、ゲームをするような感覚を、それがもたらしてくれるからだ。ゲームをするのと同じような感覚で、人は幾何学の応用問題を楽しむことができるのである。

以上のような性質を持つ幾何学の方法を、なぜスピノザは自分の世界観を展開する書物の執筆に持ち込んだのか。それについては、やはり、この書物と「知性改善論」との関係に注目する必要があろう。「知性改善論」でスピノザが目ざしたのは、明晰・判明で確固とした前提にもとづき、真実の議論を展開することであった。それと同じことをスピノザは、「エチカ」に適用したいと思って、幾何学の方法を持ち込んだのだと思われる。幾何学は、先ほども述べたように、図形の定義から出発して、それと矛盾しない限りで、さまざまな結論というか、主張を展開していく。それと同じように、世界観の展開にあたっても、明晰・判明と思われることがらを定義したうえで、その定義に含まれる前提にかなった議論を進めていくことで、間違いのない議論をしたい、そうスピノザは考えたのではないか。

だが、もしそうだとすれば、やや理解に苦しむところが、この書物にはある。この書物は、幾何学の教科書と同じように、用語の定義から始めて、公理および定理という具合に進んでいくのだが、その定義というのが、「自己原因」についての定義から始まるのだ。また、公理については、「存在する一切のものは、それ自身のうちにあるか、他のもののうちにあるか、そのいずれかである」という言表から始まるのだが、これが果たして公理というにふさわしいものか、どうもあやふやに思われるのである。

スピノザが、書物の冒頭で「自己原因」の定義から始めたのは、それが神の問題にストレートにつながると思ったからだろうが、これは論点先取りではないのか、という疑念を抱かせるところだ。しかもスピノザは、冒頭で定義した八つの事柄あるいは用語のなかに、神の定義も含めている。「神によって私は、絶対に無限な有、すなわち、それの一つ一つが永遠かつ無限な本質をあらわしているところの無限な諸属性を通じて確立している実体を、理解する」といった具合だ。

これは神の定義だが、その定義には無限とか、永遠とか、本質とか、属性とか、実体といった言葉が含まれている。これらの言葉のなかには、別の部分で定義されているものもあるが(実体と属性)、その意味は必ずしも明確ではないし、したがって、それらの言葉を組み合わせることで、神という概念が明確になるものでもない。だいたい、神の問題というのは、こうした種類の議論においては、最後に明確化されるものであって、議論の始まりにさいして前提されるようなものではないだろう。

スピノザが、議論全体の当初に神を持ちだしてきたのは、しかも定義というような形で、あたかもそれが万人共通の前提として定義するというような形で持ち出すのは、証明されなければならないものを、証明のための前提として持ち出すようなものではなかろうか。

というようなわけで、「エチカ」という書物でスピノザが採用した方法は、外見上は幾何学に似ているが、実は似て非なるものではないか。幾何学においては、用語の定義は言葉の理解を誤解ないものにするための手続きであるし、また、公理とは万人にとって疑いを挟む余地のない、つまり明晰・判明なことがらの表明である。そういう明晰・判明な事柄を前提にして、議論を積み重ねていくというのは、「知性改善論」においても強調されていたことだ。しかし、スピノザが、「エチカ」においてとっている態度は、それとは大分違うように見える。かれは定義のなかに、別途証明を必要としているような事柄を含めているし、また公理についても、万人にとって疑いのない、明晰かつ判明な事柄だけとは言えない。

以上はあくまでも方法論の面からみた「エチカ」の特異性についての指摘である。「エチカ」が含んでいる思想的な内容についての特徴は、別途検討してみたいと思う。


スピノザの「エチカ」その二:神について

スピノザの「エチカ」その三:精神について

スピノザの「エチカ」その四:感情について

スピノザの「エチカ」その五:知性について


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