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スピノザの「エチカ」その二:神について


スピノザの「エチカ」は、神についての説明から始め、以下精神、感情、知性の説明へと移ってゆく。なぜこのような構成をとったか。スピノザは、自分たち人間が生きているこの世界を、実体とその属性及び変容と考えており、それにしたがってこのような構成をとったものだ。実体が神に相当し、その属性及び変容が、我々人間が自分の生きている世界と解釈しているところのものにあたる。したがってスピノザによれば、「エチカ」の構成は、世界を説明するモデルとして、これ以外にあり得ない必然的なものだったわけである。

実体という概念はデカルトから受け継いだものだ。デカルトは実体というものを、世界の根本的な構成原理と考えた。あるいは世界の根本的な構成原理を実体という言葉で呼んだ。しかして実体には二種類あると言った。精神と物体である。言い換えれば思惟と延長ということになる。それに対して神は、この世界を超越したものとして、実体とは異なるものと考えられた。したがって、この世界から超越した神の存在についての証明をするように迫られた。この世界に内在するものであれば、存在は必然的なこととなるが、この世界から超越しているということになれば、存在は必ずしも必然的とは言えないからだ。しかしデカルトによる神の存在証明は、万人に納得できるほど自明なものとは思われなかった。この世界から超越しているということは、この世界の外側にあるということである。この世界の内側に生きている我々人間が、この世界の外側にあるものを、どうして認識することができるのか。そういう疑問がつねにつきまとうからである。

スピノザは、神を実体だとした。しかして、実体とはこの世界の根本的な構成原理だとした。ということは、神は超越的なもの、この世界の外側にあるものではなく、この世界の内側にあって、世界の原因となっているものである、ということになる。実在している世界の原因なのだから、神は無論存在していることが前提となる。存在していないもの、つまり無から、存在すなわち有が生まれることはないからだ。ここがスピノザを、デカルトから決定的に隔てるところである。デカルトには、キリスト教の超越的な神を、疑いえない前提とする素朴な信念があった。だからこそ、その超越神の存在について、やっきになって証明しようとしたわけであろう。

ところがスピノザは、実体は神であって、しかも神以外の実体はないとすることで、神の存在についての疑念をあっさりと解消してしまうのである。実体が神だというのは、神は存在するということと同義である。何故なら、スピノザは、実体を自己原因だとすることで、その存在が必然的なものだと言っているからである。存在する、しかも絶対的に、無限に、永遠に存在するものが実体であるとすれば、それを神という言葉で呼ぶことに不都合はないはずだ。神はだから、超越的な存在として、世界の外部から世界に働きかけるのではなく、世界に内在するものとして、世界の内側から世界に働きかける、というか世界を絶えず生成させているものなのである。そのような神が、果たして神の名に値するのか、という疑問はあると思う。しかしスピノザは、そうした疑問を妄想だとしてしりぞける。彼は神を世界に内在する構成原理だとすることで、キリスト教的な神の概念から大きく逸脱したわけである。スピノザの神は、この世界そのもののことを意味するのだ。

こうしたスピノザの考えを、汎神論とか理神論とかいう見方があるが、ある意味ではあたっており、ある意味ではあたっていない。あたっているというのは、神の存在を絶対的な前提として、この世界を解釈しようとすれば、汎神論とか理神論はそうした解釈の一つのパターンとしてありうる話だし、スピノザにも、神を前提としたうえでこの世界を解釈したいという意図があったとすれば、それが汎神論や理神論の形をとったことに無理はないと言えるからである。あたっていないというのは、スピノザには伝統的な意味での神を前提とする意図はまったくなく、したがって神という言葉をスピノザは、単に便宜的に使っているにすぎないとすれば、汎神論も理神論も意味を持たなくなるだろうからだ。スピノザのテクストを深読みすれば、どうもスピノザは、神という言葉を便宜的に使っていて、普通の人のような、神に対するいわゆる信仰は持ち合わせていなかったように思えるのである。もしスピノザの神を、神の一種に数えるとすれば、それは無神論者の神ということになろう。

スピノザは、神についての説明を始める前に、八つの定義をしている。いずれも神に関するものだ。普通、というか幾何学の学習においては、定義とは言葉の意味をはっきりさせるためになされる。たとえば、点とは位置だけを持ち部分を持たないものであり、線とは点が一様に展開したものだ、といった具合である。ところがスピノザが、これらの定義で主張していることは、言葉の定義ということを超えて、概念についての積極的な主張である。つまり定義のなかに、自分の主張をひそめさせているわけである。

ともあれ、スピノザの八つの定義とは次のようなものだ。自己原因は存在を含むということ、他の事物によって限定されているものは有限だということ、言い換えれば無限とは他の何者によっても限定されず、自己自身の中に原因を持つこと、実体とは自己原因によって存在しているものだということ、属性とは実体の本質を構成するものだということ、様態とは実体の変容であること、神は絶対的に無限な存在としての実体であるということ、自由とは自分自身だけに行動の原因を有する事態だということ、以上の七つに続いて、八つ目は永遠の定義なのだが、これがちょっとわかりづらい。ただ、持続や時間とはかかわりないことが念押しされているばかりである。

いずれにしてもこれらの定義は、神の概念を明確化するための準備であるといえる。これらの定義で主張されていることを理解する限りで、スピノザが「エチカ」で解明していることも正しく理解できるという具合になっている。しかして理解すべき内容は、世界は疑いなく存在しているということに尽きる。存在している世界の存在の仕方は、絶対的であって(つまりそれ自身に存在の原因を持つということ)、かつ無限であり、永遠であり、また自由である。これに対して我々人間は、世界の構成要素の一つとして、その属性及び様態の如きものである。我々人間を含めたこの世界の構成要素は、すべてその存在の原因を実体としての神におい、つまり他のものによって限定されているわけであるから、有限であり、刹那的であり、必然性に支配されているということになる。人間が、自分の行動を自由に基づくのだと考えるのは、自分の存在の原因を正しく知らないことから生まれる妄想なのだ。




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