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スピノザの「エチカ」その三:精神について


スピノザにとって精神とは、思惟するものである。ところで思惟とは、延長とならんで神の属性とされる。デカルトは思惟する精神と延長からなる物体を、二つの実体ととらえたわけだが、スピノザはそれらを、唯一の実体である神の属性としたのである。実体と属性との関係は、原因と結果の関係に他ならないから、精神はその原因を神に持つということになる。つまり、精神は神の思惟の結果としてあらわれるのであって、それ自身のうちに根拠をもつものではない。自己自身のうちに根拠を持たないということは、自立していないということを意味する。自立していないということは、自由ではないということを意味するから、精神は非自律的な存在だということになる。非自律的な存在とは必然的な存在ということを意味する。必然的な、という意味は、スピノザにあっては、根拠を他者のうちに持つということだ。この場合、他者にあたるのが神というわけだ。精神は神の思惟の結果あらわれるところの、必然的な現象なのである。

精神と神との関係は、結果とその原因との関係であるが、精神と物質との関係は、どのようなものだろうか。ここで物質というのは、とりあえず身体をさす。というのも人間は、精神と身体からできていると、スピノザは考えているからだ。デカルトも人間をそのように考えた上で、この両者は基本的には、それぞれ自律した実体だと考えた。実体の定義からしてそういうことになる。二つの異なる実体は、基本的には全く別のものであるから、両者の間には必然的な関係はないということになる。もし両者が必然的に関係しあうということになれば、両者はある属性を共有しているということになるが、同じ属性を持つものを、別の異なる実体とはいわれないからだ。

スピノザは、精神と身体とを異なった実体とは考えず、両者とも神の属性であると考えるから、精神と身体との関係をずっとフレキシブルに説明できる。精神は思惟するものとして様々な観念を持つが、そのなかで特権的な重要性を持つのは、自己自身の身体についての観念である。というのも、スピノザによれば、人間の精神は自己の身体の観念を通じて世界のさまざまな事象についての観念を持つことになるからだ。身体は他の物体からさまざまな変容を蒙る。その変容は、他の物体の身体への働きの結果生じるものである。精神はそれを通じて自己の身体の外部についての観念をもつことができるのである。デカルトは、基本的には、自己の身体もそのほかの物質も、延長という実体の変容というふうに考えたので、身体の特権的な重要性を強調することはなく、精神は自己の身体についてもその他の物体についても、同じような認識の仕方をすると考えていた。それに対してスピノザは、精神にとっての身体の特権的重要性を認めたのである。

身体にせよ、その他の物体にせよ、それについての観念の秩序と結合は、身体あるいは物体等の事物の秩序と結合と同じものである、とスピノザは考える。したがって、観念の秩序と結合とが事物のそれと一致しているかぎり、その観念は真なる観念ということができる。逆に一致しない場合は、それは虚偽という。虚偽についてスピノザは、「知性改善論」の中で詳細に論じているが、それを簡単に要約すると、不十全な観念が事物を正確に捉えていない場合に虚偽が生じるということだった。そういう事態を、観念が存在の支えを持たないと言い換えることができるが、要するに観念が事物をありのままに捉えられないということである。事物のありのままというのは、事物の存在ということである。だから事物をありのままにとらえわれないということは、事物の存在を捉えられないということである。

ともあれ、精神が世界についての観念を得るのは、身体の変容を通じてである。その点で、身体と精神とは両者あいまって一対の認識装置を形成しているわけである。これを言い換えれば、人間の精神作用はすべて身体を通じてなされる、ということになる。身体は延長としての資格で物質の一部であるから、精神は物質を通じて思惟するということになる。人間の精神は、スピノザによれば、物質によって制約されているわけである。だからデカルトのように、世界認識の根拠が精神にあるとは言えない。むしろ身体にあるというべきだ。身体が精神を通じて世界を捉えると言ってもよい。

精神にせよ、身体にせよ、神の属性だといった。スピノザの神は、超越的な存在ではなく、この世界に内在するような存在と捉えられており、したがって世界の存在そのものと同義といえる。ということは、世界そのものが原因となって、個々の人間の精神作用、つまり観念による思惟が生じるということになる。思惟は、世界の存在の一つの変容のあり方なのだ。精神が自律的に思惟するとはいえない。世界が精神を通じて思惟しているのである。

スピノザは、個々の人間、つまり個人は有限な存在だという。それに対して実体としての神、つまり世界そのものは、無限である。無限な世界が、有限な個人を通じて顕現するわけだ。その個人の思惟は、世界の変容のひとつのあり方だということになる。いずれにせよ個人の精神は、世界の変容の一例としての意義しか持たず、デカルトの精神のような自律性はもたないと観念される。そのようなスピノザの、精神の軽視は、隠れた唯物論を思わせる。隠れた、というのは、スピノザは表向きは神という言葉を使っており、その神という言葉が、伝統に支えられた形で、強い精神性を感じさせるからである。だが神を世界そのものと割り切ってしまえば、精神に優位を与える根拠はなくなってしまうわけで、そのような精神軽視の態度を、唯物論といっても間違いはないのである。




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