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スピノザの「エチカ」その五:知性について


「エチカ」の最終章は、知性の能力または人間の自由についての考察だ。スピノザはそれをデカルトの批判から始める。デカルトは、知性を正しく捉えそこなったが、それは精神と身体を全く別のものとした結果だというのだ。全く別のものが、一緒になって働くことはない。しかし人間の精神活動というものは、身体を除外しては考えられない、というのがスピノザの基本的なスタンスなのである。たしかにデカルトは、全く異なった実体としての精神と身体が、脳の中にぶら下がっている松果体を通じて連絡しあっているとは言っているが、もともと何の共通性ももたないもの同士がどのようにして連絡しあうというのか。実際デカルトの説明は、明晰判明とはいえないと言って、スピノザはデカルトを厳しく批判するのである。

スピノザが知性という言葉で呼んでいるのは、高度な精神活動のことだ。理性とも言っている。人間の精神活動をスピノザは、感覚をベースにしたものと、感覚から自由になった高度な精神活動とに分け、その高度な精神活動を知性と呼んでいるわけだ。感覚をベースにした認識は第一種認識といい、不十全な認識だとされる。それが不十全なのは、ほとんどが感覚からなりたっているからだ。それに対して第二種認識は、感覚から自由な、高度に精神的な、あるいは知性的乃至理性的な認識だとされ、また十全な認識だと言われる。スピノザは更に、第三種認識というものを想定する。それは知性の活動ではあるが、単なる理性的な認識であることを超えて、神の直観を内実とするような認識である。第一種認識が身体と密接に結びついていることはいうまでもない。感覚とは、スピノザによれば、身体の変容についての観念だからである。第二種認識は、直接に感覚とはかかわらないが、しかし全く無関係というわけではない。というのも、人間の精神活動は、時間の持続の中で展開され、その持続とは身体の持続と結びついているからだ。人間は、身体を捨象して、精神だけでは活動することはできない。人間は精神と身体とから成り立っているのである。

人間が精神と身体から成り立っているとすれば、身体が滅びれば、つまり肉体として死ねば、精神も消滅するのだろうか。たしかに身体と結びついた限りでの精神は消滅すると考えるべきだが、しかし完全に消滅してしまうわけではない、とスピノザは言う。そんなことを言われると、スピノザは精神が霊のようなものとして、どこかにただよい続けるというふうに思っていたと考えられがちだが、そういうソクラテス的な霊魂観をスピノザは持ち合わせていない。精神は、身体の滅亡後もある部分で存在しつづけるが、そのある部分というのは、精神における永遠の部分だとスピノザは言うのである。その永遠の部分は、ソクラテスがいうような霊魂という形はとらない。霊魂というと、形なきに見えて、実は形あるものなのだ。しかし永遠というものは、形あるものとは全く次元の異なる概念なのである。

ここでスピノザの永遠観が問題になる。永遠というのは、基本的なことをいえば、神の属性である。その神の属性に人間もあずかることで、人間における永遠なるものを語ることができる、とスピノザは言うのである。人間の精神のそのもの自体が、永遠なのではない。人間の精神が神の属性である永遠にあずかる限りにおいて、その部分で永遠であることができる。わかりにくい言い方だが、要するに、人間には神と直接つながるところがあって、その部分が人間をして永遠にあずからせるということらしい。したがって個々人の精神が霊魂というような形をとって永遠に存在するということではない。精神のうちの神につながっている部分が、永遠と通じ合っているという意味なのだ。

したがって、人間は、第三種認識を通じて神の認識に至ることによって、自分の精神も永遠の相のもとで把握することができる。それは身体の制約から解放された、その意味で自由な精神であるということができる。スピノザにとって人間の自由とは、身体的な制約から解放されて、神との間で永遠の関係を持つことなのである。自由は永遠と通じ合うわけだ。

この章では、神について多くの言葉が費やされている。それを読むとスピノザは、神を超越的な存在者として捉えているかのような気にさせられる。神をあたかも人格をもった存在者のように語っているからである。たとえば、神は誰をも愛さず、また誰をも憎まない、何故なら神はどんなよろこびも、またどんなかなしみも持たないからだ、とか、神は無限の知的愛を以て自己自身を愛する、といった具合だ。そんな神を人間は憎むことはできない。人間は神を一方的に愛するように動機づけられているのであり、神によって愛しかえしてもらうことを期待してはならないのだ。

だが、スピノザの神が無神論者の神であり、スピノザがユダヤ教徒やキリスト教徒が信仰しているような超越的な存在としての神の観念を軽蔑していることは、先述のとおりである。スピノザの神とは、世界の存在そのものなのだ。人間も又世界に存在しているものとして、その存在の事実を祝福することには、十分な理由がある。なかには自分の存在ともども世界の存在を呪うような人もあるかもしれぬが、そういう人はごく例外的な人間だ。普通の人間なら、自分が存在していること、つまり生きていることに無上の喜びを感じるはずだ。その喜びは、世界そのものにも向けられる。それをスピノザは、神への愛という言葉で呼んでいるのである。その愛のなかで、人間は自分が神とともに自由であると感じるわけだ。スピノザのいう自由は、身体の制約からの開放という消極的な相とともに、神との一体化という積極的な相も持っているのである。神との一体化がなぜ自由をもたらすか、その理由をくだくだしく説明する必要はないであろう。




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