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ドゥルーズのスピノザ論その二:知性改善論とエチカの関係


スピノザが「知性改善論」の執筆を中断して「エチカ」の執筆にとりかかった理由について、小生はなにかの事情があったのだろうが、詳細はわからないと別稿で書いたところだが、その後ドゥルーズのスピノザ論を読んでいたら、その事情が明確に指摘されていた。スピノザが「知性改善論」の中で試みたことは、一応神を証明することであったが、それをスピノザは分析的な方法で以て証明しようとして、なかなかうまくゆかなかった。ところが、総合的な方法で以て証明するとうまくゆきそうだ。その方法を適用するには、特別の概念が必要になるのだが、それをスピノザは「知性改善論」の執筆がかなり進んだ時点で発見した。そこで、この概念を用いて神の証明をすればよいということになるが、それにしては、「知性改善論」の執筆が進みすぎていて、そこに訂正を加えようとすると、全面的に書き換えなければならなくなる。そこでスピノザは、新たに「エチカ」を書いて、自分の納得のゆく神の証明をした、とドゥルーズはいうのである。

分析的とか総合的とかいう言葉を使ったが、分析的というのは、推論の結果が前提のうちにあらかじめ含まれているようなことを言い、総合的というのは、既知の前提を組み合わせて新たな事象を説明することを言う。スピノザは当初、分析的な方法で神を説明しようとしたわけだが、それはデカルトによる神の存在証明とほとんど変わらないものだった。つまり、神の属性の中にはすでに存在が含まれている。何故なら神の概念は完全無欠であるはずだが、存在が欠けていては完全無欠であるとは言えない。だから神が存在するということは、神の概念の定義からして必然的なのだ。そうデカルトは言うわけだが、スピノザはその説明に納得できないものを感じた。そこでもっと説得的な説明はないかと考えていたところ、分析的な方法ではなく、総合的な方法を用いてはどうかと思うようになった。総合的な方法とは、先ほど述べたように、既知の前提から出発して新たな概念に達する方法である。神の概念についていえば、さまざまな既知の前提を組み合わせて、そこから神の概念に至るということになる。具体的にどのようにしたら、それが可能になるか。

スピノザは、人間の認識には三種類のものがあるという。第一種の認識は、感覚を主な構成要素とする不十全な認識、第二種の認識は、理性による十全な認識、そして第三種の認識は直観的な認識と言われているが、ありていにいえば、神の認識をさしていう。そこで神の認識にとって問題になるのは、第二種の認識、つまりすでに知られている十全な認識をもとに、いかにして神の認識に達するかということである。スピノザはその手掛かりになるものを発見した。それは共通概念だ、とドゥルーズはいうのだ。この共通概念を手掛かりにして、第二種の認識で得られたさまざまな前提を組み合わせて、神の認識にいたることができるというわけなのである。

共通概念とはなにか。単純化していうと、二つの事柄について、その両者に共通している属性の概念を指すということになる。三つ以上のものについても同様のことがあてはまる。無論無数の事柄についてもあてはまる。ところで、この世界に存在するあらゆる事柄に共通する属性とは、それは存在のことだ。存在こそが、すべての事柄の共通概念なのである。そうした概念に対応する存在というものを、スピノザは神と名づける。この神はだから、スピノザ特有の神であって、ユダヤ教の神とかキリスト教の神とはだいぶ違っている。そこをユダヤ教徒たちやキリスト教徒たちにかぎつけられて、スピノザは迫害されることになるわけである。

こういうわけであるから、スピノザが「知性改善論」の執筆を中断して、「エチカ」の執筆にとりかかったのには、十分な理由があったのである。「知性改善論」は幾何学的方法、つまり分析的方法で以て書かれているが、「エチカ」は総合的方法で以て書かれている。それを可能にしたのは共通概念の発見だ。この概念は「エチカ」で初めて登場する、そうドゥルーズは言うのである。

共通概念は、第二種の認識から第三種の認識への橋渡しをするばかりではない。それは第二種の認識における十全性をも強化する。「共通概念は、そうした手順がどれほど多様なものであろうと、それらをうちに含むこの第二種の認識の整合性、十全性を保証しているのである。いかなるかたちをとろうと、そこでは『なんらかの実在する存在から出発して他の実在する存在へと』向かうことになるからである」

デカルトの神が、その実在性に疑念を感じさせるように出来ているのに対して、スピノザの神は確固たる実在性に裏付けられている。何故なら、それは共通概念に支えられており、その共通概念が実在性を含んでいるからだ。地に足のついた推論とは、実在性の地盤の上にたった推論だということを、スピノザは共通概念を通じて主張できたわけである。


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