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深川清掃事務所の思い出 落日贅言


小生が大学卒業後の就職先に選んだのは東京都庁だ。自分のホームページのプロフィール欄には、「東京に事務所を置く一地方団体」と記してある。都庁を選んだ理由は二つある。どちらも大したことではないが、一つ目は、大学で仲良くしていた友人から、都庁の採用試験を一緒に受けようと誘われたことだ。その友人は結局都庁には入らず、大手新聞社に努めた。当時は役所の給与は低く、大手企業のほうがはるかに高い収入を得られたので、かれの選択は正しかったのだろう。もう一つの理由は、家族への気兼ねだ。小生は四人兄弟の長男坊なので、ゆくゆくは親と同居して、面倒を見なければならないと考えていた。それには遠方への転勤がないところでなければならない。都庁という職場は、転勤は無論あるが、だいたいが二十三区内に収まると聞いていたので、自宅から十分通える範囲内である。そんなわけで都庁を選んだ次第だった。

小生が都庁に入ったころは、特別区の人事にも都が介入していて、特別区の採用試験も都が一括して行っていた。そんなわけで、小生と同時に採用されたもの(大卒程度の場合)は五百名にのぼると聞いた。その五百名が、都庁の本体、教育現場、公営企業、特別区に配分されるのであった。小生の知人はある特別区に配属されて、そのまま定年までそこで勤務した。本人は、都庁に入るつもりで都の採用試験を受けたのに、特別区に配属されてしまったのは心外だと言っていたものだ。小生は清掃局に配属された。時期は詳しく覚えていないが、入都式に先立って、配属予定の局から呼び出しがあり、面接選考を受けた。この選考をパスしてはじめて都庁職員として採用されるのである。この面接を受けたころ、いわゆるゴミ戦争が勃発していて、東京のごみ問題が世間の耳目を集めていた。そこで面接員から、ごみの仕事だがやる気は出るかと聞かれて、いま東京のごみ問題は大きな社会問題になっているので、それに取り組むことはやりがいがあります、と答えたものだ。実際には、経済とか労働関係の局に行きたかったのである。

だが、すんなり都に入ったというわけではない。大学の単位(刑法)が一つ分足りなくて、留年するはめになる可能性に見舞われたのである。そこで小生は、刑法の教授の自宅に押しかけて、実家の経済状況やら就職が決まっていることなど事情を縷々説明し、なんとか卒業させてもらいたいと拝みこんだものである。この拝み倒し戦法が功を奏し、小生は教授から特別に単位を授けてもらったのである。

だが、大学の卒業証書を、局から指定された日までに提出することはできなかった。そこで局の人事係に電話を入れ、事情があって提出が遅れるがどうしたらよいかと聞いたところ、一日が無理なら十五日に採用する手もあるから、それに間に合うように提出してもらいたいと言われた。そんなわけで小生は、四月十五日採用ということになった。そのことによるハンディはなかなか大きかった。まず、ほとんど単独採用に近いので、同期生というものを持てなかった。都庁では新規採用職員に対して一斉に新規採用研修というものを施す。その研修には、同時に採用されたすべての人間が参加する。それらがクラス分けされ、半月間一緒に過ごす。クラス員には、都庁本体のほか、特別区の者もおり、それらが互いに同期意識をはぐくむのである。そうした人間的なつながりは、都庁のような巨大組織ではきわめて貴重なのであるが、小生はその貴重な機会を逃したわけである。もう一つのハンディは経済的なものだが、これは大した問題ではないので、触れないでおく。

そんなわけで小生は、1972年4月15日に、有楽町にある都庁第二庁舎五階の清掃局総務部庶務課人事係を訪ね、庶務課長から採用辞令を頂戴した。そのほか人事係の担当者から、職員バッジとか職員手帳を交付された。配属先は深川清掃事務所で、それについては三月中に行われた事前案内の席で示されていた。この人事係には、小生もその後在籍することとなる。

採用の儀礼が終わると、深川清掃事務所から差し向けられたという男が現れ、小生を伴って配属先の事務所まで連れて行ってくれた。その男とは以後親しく付き合うことになる。われわれは、有楽町から電車に乗って錦糸町駅まで行き、そこから都バス(都電はもう走っていなかったと思う)に乗って扇橋という停留所で降り、事務所を目指して歩いた。その事務所は、小名木川と横十間川の交差するところにあり、新高橋の南詰に位置していた。停留所からそこへと向かううちに、遠目に家具や電気製品などのいわゆる粗大ごみが、敷地の塀越しに見えた。清掃事務所なのだから、ごみの類を保管しているのは不自然ではないと思ったことを覚えている。しかし、門をくぐって敷地の中に入ったところで大きな驚きに見舞われた。二階建ての低い建物の壁にそって、糞尿の汲み取り桶が並んでいたのだ。清掃事務所はごみだけでなく、人間の糞尿まで取り扱っているということを思い知らされた。当時は、東京の下水道整備状況はまだ完成していなかったので、汲み取りで対応する地域が結構あった。大部分はバキュームカーというもので汲み取るのだが、狭い路地の奥など車が入っていけないところは、職員が桶を担いで汲み取りに入っていた。深川清掃事務所には、汲み取り担当の職員が10名ほどいて、かれらが汲み取り桶を担いで狭い路地の奥まで入り込んでいたのである。そんなわけで小生の都庁に入って最初の印象は、「これが俺の職場か」という驚きまじりの感情を伴ったものだった。

管理係長が機嫌よく迎えてくれた。所長は五十台半ばの好々爺といった感じの人で、こんなところにいつまでもいるわけではないから、前向きにとらえるようにと、同情するようなことを言った。さっそく職員全員(150人ばかりいた)の前で挨拶させられ、その夜は、管理係長が門前仲町の小料理屋でもてなしてくれた。この係長は税務の出身で、街の中小企業には顔が利くということだった。深川といえば、辰巳芸者で知られる土地柄。芸者上がりのお姐さんが三味線をつま弾きながら端唄を披露してくれた。深川節といって、なかなか小粋な感じの曲である。小生は、学生時代にはほとんど飲酒したことがなく、酒には弱い体質だったので、振る舞い酒にすっかり酔いつぶれてしまった。どこだったかは思い出せないが、その日もらった辞令以下の貴重なものをみななくしてしまった。罪深いことだったと思っている。

歳入という仕事を担当させられた。これはごみの手数料の徴収が主な仕事である。家庭から出るごみは無料だが、事業系のごみは有料である。その手数料の徴収が仕事なのだが、それには二種類ある。一つは事業所から出るごみの手数料。これは月ごとの分をまとめて納付書を送付する。併せて滞納する事業者から取り立てを行う。これがなかなか大変なのである。もう一つは日々の仕事。これには深川清掃事務所特有の事情があった。深川清掃事務所は、ごみの最終処分場である東京湾埋め立て地に一番近い事務所である。であるから、ごみの搬入業者のトラックが、わが事務所に集中する。その数毎日200台を超え、しかも早朝から事務所の前に列をつくるほどである。それをスムーズに裁くのが、歳入担当の重要な仕事の一つなのだ。それゆえ小生は、早朝七時半には出勤して、列をなすごみトラックを要領よく裁いたものである。忙しいのは朝のうちで、ほかは時間をもてあますほど暇であった。都庁というところは、どの部署でも、ありあまるほどの職員を抱えているのである。

事務所に出勤してから一週間ほど後に、局の新規採用研修というものが催された。これは都の新規採用研修を終えた職員を対象に、局職員としての自覚をもたせるための研修である。それに小生も出ることができたので、その時のメンバーが小生にとっての唯一の同期生である(二十数人いた)。研修の内容については詳しくは覚えていないが、ひとつ面白いことがあった。研修担当係長という人が、清掃局という名前はあまりイメージがよくないので、もっとイメージのよい局名にしたいと考えている。ついては諸君にも、いい名前を考えてほしいというのだ。当時はごみ問題が脚光を浴びていたので、清掃局の存在感が高まっていた。その高まりを背景に、局のイメージアップをしたいというわけであろう。当時は美濃部都政時代で、清掃事業の特別区への移管はまだ大きなイシューにはなっていなかった。だが、地方自治法には、清掃事業は基礎的自治体の仕事ということになっており、清掃局の所管事業が特別区に移管されるのは時間の問題と見られていた。じっさい、美濃部都政から鈴木都政に変わると同時に、清掃事業の特別区移管がクローズアップされ、やがて実現することになる。清掃局としては、名前を変える前に、局の存続について組織防衛の努力をすべきだったのだ。その点、小生も含めて、清掃局の人間には危機感が欠けていたといわざるを得ない。自分が所属する局が都からなくなるということは、都には自分の居場所がなくなるということを意味する。だから、都で生きたいと思うものは、自分の所属する局の存続のために最大限の組織防衛努力をすべきなのである。

小生が深川清掃事務所に入ったころは、ショーン・コネリー演じる007が人気を集めていた。小生もショーン・コネリーが好きだったので、彼の男前に自分もあやかりたいと思ったほどだ。そこでコネリーのシンボルであるグレイのスーツにアタッシュケースといういでたちで、毎日事務所に通った。そんな小生を、職場の同僚たちは、岡本理研のセールスマンみたいだと言って冷やかした。清掃局の連中はコンドームのことを兜と呼んでいた。汲み取り桶のなかには、兜が浮かんでいるのが結構多いのである。




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