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墨田区役所の思い出 落日贅言


墨田区への転出が決まったことを人事係の同僚に報告した。次席のI氏は、墨田区はまだ総合庁舎を持たず、本所区役所と向島区役所時代の古い庁舎を使っている。君の所属は厚生部だというが、厚生部はおそらく向島区役所の建物に入っていると思う、と言った。小生は両国にある庁舎に通うことと思っていたので、意外な情報だった。

ともあれ小生は、墨田区の採用辞令をもらうために、12月15日に両国の庁舎に出頭した。もう一人同日付で墨田区に採用されるものがいた。S君といって、労働局出身の男である。この男とはその後、ともに墨田区で過ごした者同士として、長い付き合いになった。

区長室で区長の手から採用辞令をもらった。辞令には、「墨田区に採用する、主事に任命する、厚生部厚生課主査を命じる」と書いてある(その前に東京都からは「辞職を承認する」という辞令をもらっていた)。辞令を交付すると区長は訓令のようなことを言った。その中で小生には、区では福祉保健総合センターを建設するつもりだから、それのグランドデザインと建築基本設計をまとめてもらいたいといった。辞令の交付式が終わると、厚生部の厚生課長という人が現われ、小生を向島にある庁舎に、庁有車で連れて行ってくれた。この人はM課長といって、小生が墨田区在職中にただならぬ世話になった人である。いまでもその面影が浮かんでくるくらいだ。

向島の庁舎には、厚生部のほか土木部が入っていた。小生は一応庁舎内をくまなく案内され、それぞれのところで就任の挨拶をした。そのあと、前任のDという五十がらみの人から、仕事の引継ぎを受けた。区長からいわれた福祉保健センターの仕事は特命事項であって、本職の主要な担任事務は福祉施設の建設だという。当時は福祉施設の建設ラッシュで、福祉三点セットと呼ばれたものが各区で多く作られていた。三点セットとは、保育所、児童館、老人向けサービス施設をいう。墨田区ではそのうち、保育所と児童館を盛んに手掛けていた。小生が引継ぎを受けたのは、建設中の保育所が三か所、竣工間際の保育所が二か所、計画段階の保育所が二か所、同じく計画段階の児童館が一か所であった。これだけ抱えるのも大変だと思われたのに、福祉保健センターまで手がけるのでは、かなり忙しい目に合いそうだと思った次第だった。

その夜は、M厚生課長が音頭をとって、ごく内輪の歓迎会を催してくれた。出席者は、厚生課長のほか厚生課のH福祉係長、同課のK主事、N児童課長、M児童係長そして社会福祉事業団のW係長であった。このメンバーとはその後頻繁に酒席を共にする間柄になった。店は花仙という名の小料理屋で、東武曳舟駅の近くにあった。向島の芸者上がりの四十がらみの女将と、六十前後の媼二人でやりくりしていた。興が乗ってくると、よくありがちなように、芸を披露しあった。小生にもなにかやれというので、シャンソンをフランス語で歌った。シャンソンをフランス語で歌うとは、この下町では珍しい存在だというので、小生は花仙の女将にすっかり気に入られてしまった。

翌日、小生は向島の区役所に直接出勤した。京成曳舟駅から歩いて行ったのだが、道路が複雑に入り込んでいて、あちこちで行き止まりになっている。小生もそうした行き止まり道路に迷い込んでしまった。区役所の建物はあちら側に見えているのに、その間に長屋が介在してまっすぐにはいけない。まさか長屋の中を横切って通るわけにもいかないので、小生は試行錯誤を繰り返しながらやっとの思いで区役所にたどり着いた。後で聞けば、墨田区の向島地区にはこうした複雑な道路が多いという。特に多いのは、曳舟駅の南側に広がる京島地区で、ここは戦災を逃れたこともあって、徳川時代のあぜ道がそのまま道路になったところが多いようである。そういう街は災害に弱いというので、区では大規模な再開発を計画していた。

D氏から昨日の引継ぎの続きを受けた。この日は、福祉施設建設の現場を案内された。まず建設中の施設として、玉の井の一郭に建設中の保育所、白髭東地区の再開発アパート内に併設する保育所二か所。いづれもすでに名称が決まっていた。計画段階の保育所としては、鳩の町の名称で知られる地区の一郭、八広地区の一郭をそれぞれ視察した。これらは用地買収から建築設計までほぼ終了し、あとは住民説明会を開いて地元の了解を得るだけの段取りになっていた。その説明会を後日実施したところ、たいした反対もおこらず、建設は順調に進んだ。完成した保育所の名称は本職で起案して区長の決裁をとることになっている。そこで小生は、鳩の町にあるものを「鳩の町保育園」にしたいと考えたが、部内から強い反対がおこり、無難な名称にせざるを得なかった。なぜ強い反対が起きたのか、いまだによくわからない。

計画中の児童館については、設計に時間がかかってかなりたってから地元説明会に入った。ところが隣地の住民から強硬な抗議を受けた。日照が悪くなるという理由からである。その隣地住民の説得に小生はかなりのエネルギーをとられた。こういう仕事は、そうした利害関係者の合意を取り付けることが最大の山場なのである。これが都市計画事業であれば、強制収用という天下の宝刀があるが、福祉施設の建設は自治体の任意事業なので、強制的な手段はないのである。あくまでも地元の理解を得ながら進めねばならない。

保育所の建設に関連して、本職は保育園長をメンバーとするプロジェクトチームを組んでいた。保母や児童にとって暮らしやすい保育所を作ろうという趣旨のチームである。七・八名の園長をメンバーに任命し、一番年配の園長が座長を務めた。小生は事務局という位置づけだが、実際にはチームの運営を取り仕切っていた。このメンバーの会合は非常に楽しかった。園長たちは小生より十歳くらい年上の人が多く、小生を弟のように可愛がってくれたからである。彼女らに小生は、洋式トイレを導入するように提案したことがあった。ところがみな和式がいいという。他人が座った便座では気味悪いというのである。保母さんの中には妊娠している者もいることだし、色々な点で洋式の方が利点があると言っても、彼女らは納得しなかった。

福祉施設建設はルーチンな業務といえたが、特命の福祉保健センターについてはゼロから始めねばならなかった。そこで他の自治体での先行例を参考にしながら、どんな施設をめざすべきかを考えるためにプロジェクトチームを立ち上げた。厚生部及び保健部から幹部職員を集め、さらに三師会(医師会、歯科医師会、薬剤師会)といわれることろから代表を出してもらい、施設のコンセプトを議論した。議論の材料とすべく、他の自治体での先行事例を報告したり、またチームの代表団を視察に派遣したりした。その一環として関西方面を視察したことがあった。チームのメンバーから数人の派遣団を編成し、有力な先行事例と思える施設の概要を調査したのであった。大阪に宿泊したのだが、そこで立ち入った料理屋がなかなかよかった。鯛のフルコースを振る舞ってくれたのである。

プロジェクトチームがうまく回転して、施設のコンセプトが固まってきたころ、厚生課長からまた一つ特命が出された。福祉の街づくりを推進せよというのである。当時自治体の行う福祉の街づくりといえば、道路にブロックを設けるなど自前の仕事のほかは、民間事業者に呼び掛けて、障害者用トイレの設置だとか、車椅子でのアクセスなど、障害者の利用しやすい設備の改善に協力してもらうというのが主流だった。その方面では、京都市が先駆的な仕事をしているというので、京都市の担当主幹に連絡をとって、いろいろ資料を送ってもらったりした。

福祉センターの建設とか福祉の街づくりといったことにのめりこんでいくうち、福祉について深く考えるようになった。福祉とは何かを考えるうえで小生がもっとも影響を受けたのは糸賀一雄である。糸賀は厚生省の官僚と組んで、日本の福祉政策の基礎を築いた人だ。かれの書物に「この子らを世の光に」というのがあるが、「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」というのは、何事も障害者を中心に考えれば、当の障害者にとってのみならず、すべての人にとって住みやすい社会が実現する、という考えが底にあるからだ。それに小生は大いに共鳴した。

こんなわけで、墨田区での仕事は実に充実したものと言えた。M厚生課長を中心とした例の飲み仲間とは毎日和気藹々とした雰囲気で飲み歩いた。だいたいのコースは、役所近くの焼き鳥屋で仕込んでから花仙に押しかけるというものだった。焼き鳥屋の亭主は面白い親爺で、客が酒ばかり飲んでいると、うちは焼き鳥屋なんだから焼き鳥を食わないのなら出て行ってくれと脅かした。脅かされるのが、席を変えるに丁度良い頃合いなので、我々はコップの最後の一滴を飲み干して花仙に赴くのであった。

その花仙の二人の女を誘って、伊豆方面へ一泊の温泉旅行をしたことがあった。メンバーはM厚生課長を団長とし、H福祉係長、K主事、N児童課長、M児童係長、W事業団係長といったいつも一緒に飲み歩いている仲間であった。新幹線と伊豆急を乗り継いで伊東で下車し、老松という老舗旅館にとまった。そこでどんちゃん騒ぎをしたことはいうまでもない。小生にもなにかやれというので、どんちゃん騒ぎの席でシャンソンを歌うわけにもいかず、女装して踊ったりした。踊り方は花仙の女将に教わった。それにかぎらず花仙の女将は、さすが向島芸者の上りとあって、遊び方を十分にわきまえていた。彼女らは人を楽しませるのが得意なのである。

翌日は朝風呂を浴びてから伊豆高原にある墨田区の保養所で休憩したりして、夕方熱海から新幹線に乗り込んだ。ところがなかなか動き出す気配がない。そのうち、この車両は事故のため運航停止になるとのアナウンスがあった。車両を降りてコンコースに向かうと大勢の人だかりができていた。人だかりの中心には皇太子夫妻がいた。ご夫妻もこの車両に乗っていたらしいのである。我々はご夫妻の姿を遠巻きに見ていたが、そのうち美智子妃殿下が花仙の媼と目が合ったようで、群衆をかきわけながら媼のところへ近づいてきた。そして媼となにやら言葉をかわした。おそらく妃殿下は媼にオーラのようなものを感じて近づいてきたのではないか。年はとってもかつて向島芸者として鳴らした心意気がまだ失せないでいる。それが美智子妃殿下を動かしたのではないか。

伊豆の旅行はいい思い出になった。この旅行からいくばくもなく、区長からの特命事項にもめどがついた。小生はその仕事の成果を報告書にまとめて、区を去る直前に区長に提出した。小生が墨田区を去ったのは昭和57年3月31日付のことである。




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