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死の迎え方について 落日贅言


落日贅言シリーズ、今回は死の迎え方について考えてみたい。死そのものについては、先般「死を考える」と題した一文の中で論じたところだが、それは死に外から迫るようなものであって、死を自分自身の問題として、いわば内側から見たものではなかった。そこで、今回は死を内側からとらえてみたい。内側から死をとらえるというのは、自分自身が死ぬ立場に立つことである。自分自身が死ぬ立場に立つということには、二重の意味合いがある。自分自身が死をどのように迎えるのかということと、自分の死がまわりの人、具体的には家族や友人にどのようなインパクトをもたらすか、ということである。

こんなことを考えるきっかけとなったのは、雑誌「世界」の特集記事を読んだことだ。最新号(2024年8月)の第二特集が「看取りのあとで」という総題を掲げて、死を看取る立場から人の死について語るという内容の記事を掲載していた。それはあくまで他人の死を看取る人の立場から語ったものなのではあるが、その視線の先に自分自身を感じ、死ぬ側としてはどうなのか、というふうに考えが自然展開していったのだ。

今の世では、人が死ぬ場所は二つに限定されるようである。一つは、病院やホスピスを含めた介護施設、もう一つは自宅である。自宅で死ぬ人は、だんだん少なくなっているようだが、まだまだ自宅で死にたいという人は多数存在するし、政府も在宅介護を進めるなかで、自宅での死を推奨しているらしい。そこで、特集記事は、介護施設における死と自宅での死という二つのタイプの死をめぐるものになる。あわせて、今問題になっている孤立死とか、死を迎えるにあたって必要となるデジタル故人情報リテラシーといったものについての記事もある。

まず、介護施設における死。これについては、「別れは生の延長にある」と題した磯野真穂と板野悠己の対談が掲載されている。磯野は文化人類学者、板野は駒場苑というケアセンターの施設長である。板野が現場の体験を踏まえた問題提起をし、それについて二人で考えるというプロセスをとっている。板野の問題意識は、寝かせきり、おむつ、機械浴、脱水、誤嚥性肺炎、拘束、下剤といったものをゼロにするというものだ。これらは(誤嚥性肺炎を除いて)いずれも、介護を効率的に実施するための必要悪として、今の日本では容認されている。しかしそれはおかしい、というのが板野の問題意識だ。たしかに、患者の立場に立ってみれば、こんなことはして欲しくはない。そんなことをされるなら、自宅で速やかに死んだ方がよいと思う。

板野は、介護の効率化を求めるのなら、患者本人の処遇を手抜きするのではなく、患者を囲む環境の合理化を追求するべきだという。たとえば、シーツの交換とか部屋の清掃などは、なにも人の手でやる必要はない。だが、食事、排泄、入浴は機械化するべきではない。最近は陰部にバキュームをあてて排泄させるとか、陰毛を全部とるとかいうことが行われるようにさえなっている。板野によれば、食事、排泄、入浴は三大介護と呼ばれ、介護の花形というべきものだから、そこで手を抜くのは間違っているという。たしかに、飯を食って、糞をたれて、風呂で息抜きするというのは、人間の生き方のもっとも基本の部分だから、そこを手抜きされたら、患者は生きている甲斐を感じられないだろう。

二人とも、最近の風潮として、生きている人と死んでいる人とのつながりがだんだん希薄になってきていることに違和感を持っている。コロナ禍のせいもあって、葬式が極端に簡素化される傾向が強まったが、それも生きている人と死んでいる人とのつながりの希薄化の表れだろうと二人は言う。葬儀は、死者とのつながりのなかで自分たちの豊かな生が保証されているという世界観の現れであるが、なんでも合理的に割り切る今の日本では、そうした世界観がだんだんと薄れつつある。

対談の最後に磯野は、自分自身の死によって人間関係のネットワークになにかがおこり、その結果つらい思いをする人が出ることを懸念すると言っている。普通の人間は、自分が死んでも世界はまったく変わらない、あたかも自分など存在しなかったかのように、時間は流れていく、そうした自分不在の世界について、死の理不尽さを感じるものだ。死が理不尽なのは、死が自分の無意味さを露呈させるからだ、というのが大部分の人の正直な気持ちだろう。それなのに磯野は、自分の死ばかりでなく、死後における他人の幸せまで考えているわけだ。なかなかできないことである。

「終のすみかはどこにある」と題した小島美里の小文は、在宅介護とその延長としての自宅での死について論じたもの。小島は、NPO法人「暮らしネット・えん」の代表理事である。在宅介護や自宅での死については、それも選択肢の一つとして受け取り、自分から積極的に選ぶという人も当然いる。そういう人たちにとっては、自宅での死は、自分の選択したものである。だが、問題は、自宅での生活を選んでも、十分な在宅介護が得られないということだ。そうした傾向が最近強まっている。人材不足がその最大の理由だ。何しろ有効求人倍率15.5倍という求人難で、80代のヘルパーが紙おむつをつけて訪問しているありさまだという。政府は在宅介護の推進を旗印にしながら、その在宅介護が成立できるような環境づくりには無関心である、と小島は批判する。「この国は、未来の在宅介護に重きをおくことを放棄したと言って間違いない」と言うのである。

そんな風潮のなかで、「看取りビジネス」というものが流行っているという。これは、施設に入りたくても入れない人を対象に、それらの人に在宅看護のサービスを提供し、多額の医療費を請求するというものだ。制度の隙間を利用した新手のビジネスということだろう。

特養ホームについては、かつては50万人以上の待機者があったが、最近は30万人台に減り、地域によってはゼロのところもある。だが問題がないわけではない。入居料が高額化して、低所得層には高嶺の花となっている。月10万円を超える自己負担を求められるというのだ。だから、当初からあきあめるほかはない。そういう人が自宅に居続け、しかも必要な介護が受けられない。そういうケースが増えてきている。小島は、最近話題になった映画「PLAN75」を取り上げ、日本の今の状況を踏まえれば、かりに政府がこのような施策を始めたら、応募するものがけっこういるのではないかといぶかっている。

小島は、自分自身の死の迎え方について考えているという。小島の場合には、家族の経歴からして認知症になる可能性が高い。「であれば一人暮らしは厳しいからグループホームへ。認知能力が保たれた状態で最期を迎えられるなら在宅ひとり死。そう考えている」のだそうだ。

在宅ひとり死は、いわゆる孤立死の問題につながる。その孤立死を取り上げたのが、「孤立死、いまわかっていること」と題した斉藤雅茂の小文だ。斉藤は、孤独死と孤立死は違うという。孤独死は個人の主観についての概念であって、生前に寂しさを抱えたなかで死んだ場合をいうのに対して、孤立死は社会的な孤立の中で死んだ場合である。ここで問題とするのは孤立死だ、そう断ったうえで、どんな状態が孤立死を招きやすいかについて論じている。おおざっぱにいえば、同居者がいるよりも一人暮らし、女性よりも男性ということになる。孤立した人の中では、問題を抱えた人よりも、社会的な接触を拒否する人の方が、孤立死しやすい。そうした接触を拒否する人の扱いはむつかしい。過剰に介入すると人権侵害につながりかねないからである。とはいえ、社会的に孤立した人々を放置していては、孤立死はなかなか減らないという。孤立して誰からも見放され、死後の発見が遅れる。悪臭で発見された人は、平均して死語15日程度経過しているそうである。

デジタル故人情報リテラシーについては、主に故人の葬儀に関して問題になるという(瓜生大輔「デジタル故人情報リテラシー」)。上述したように、近年葬儀の簡素化が進んでいる。その中で、どのようにして個人をしのぶのか、社会的なコンセンサスが崩れつつある。そのコンセンサスを再形成して、望ましい葬儀のあり方を考えるうえで、故人情報リテラシーが問題になるというのだ。具体的には、個人の生前の様子をAIによって復活させ、それによって故人との対話を楽しむとか、死者との新しい関係性の可能性などが模索されうる。聞きなれない言葉なのでイメージが浮かびにくいが、要するに故人をどのように送るかという、葬儀の根本的な問題にかかわることのようである。

以上の問題指摘を受けながら小生は、自分自身の死の迎え方を考えさせられた。まず、家族をあわてさせないように、死んだときに速やかに死亡診断書を書いてくれる医師を決めておくことが大事だ。死ぬ前に癌など重い病気にかかり病院で死を迎えることになれば別であるが、小生はできれば自宅の畳の上で死にたいと考えている。だから、死んだときに死亡診断書を書いてくれる医師を決めておくのは大事なことである。死後のことについても用意しておきたい。葬儀に声をかける範囲とか、自分が大事にしていたものの処分の方法とか、あらかじめ家族に伝えておくことが大事だ。要はやがてやってくる自分の死について、十分な自覚をもつことだ。ぶちあけた話、小生には妻と二人の子どもがいて、妻は小生より長生きすると思っているので、死後のことは妻に引き継ぐつもりでいる。妻は妻で子供らに引き継ぐであろう。




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