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瑞江葬儀所の思い出 落日贅言


昭和62年12月から二年間、小生は都営瑞江葬儀所の所長をつとめた。火葬業務というのは、普通は自治体の仕事なのだが、東京に関しては、歴史的な事情があって民間がほとんどまかなってきた。そんななかで、昭和の初年に当時の東京市が江戸川区春江町に火葬場を開設した。それが都営瑞江葬儀所で、小生がそこに赴任した当時は東京で唯一の公営火葬場であった。

瑞江葬儀所での仕事は小生にとっては管理職としての最初の仕事だった。昇任の内示を受けると早速衛生局長に呼び出されて、妙な挨拶を受けた。最初の昇任ポストが火葬場というのは気の毒だが、何事も経験だと思って前向きに考えろというのである。火葬場の仕事を小生は後ろ向きに考えていたわけではなかったので、局長の言葉には違和感があった。この男は火葬場の仕事について偏見をもっているのだろうと感じたのである。もっとも火葬場への偏見はこの男に限らなかった。小生の周囲の者はみな同情のこもった眼で小生を見つめたものである。とりわけ女性の方にそういう傾向が見られた。火葬場の所長だなんて呪わしい限り、というような本音を彼女らの顔に見たのである。小生を、あたかも疫病のウィルスのように見ている目であった。

瑞江葬儀所は建設局の所管なので、建設局長のところへ辞令をもらいに行った。それには次のようにあった。
  副参事に任命する
  建設局副主幹を命じる
  財団法人東京都公園協会へ出向を命じる
あとで知ったことだが、都では業務の外部委託を進めており、葬儀所や霊園の業務を外郭団体に委託していたのであった。公園協会自体は古くからある団体で、たしか戸山公園のなかに事務所を置いていた。その事務所に採用辞令をもらいに行った。それには次のようにあった。
  副参事に任命する
  東京都瑞江葬儀所管理事務所長を命じる
小生が赴任したころには、都営地下鉄の新宿線はまだ開通していなかったので、最寄りの駅は国鉄の小岩駅であった。そこから瑞江葬儀所まではバスに乗って30分以上もかかった。所では二人の係長と、少数の職員が出迎えてくれた。施設担当の係長は、小生の顔を見るなり、春の定期異動では是非ほかへ異動させてほしいといった。出会い頭に、ほかの部署へ移りたいなどと、どんな神経でそんなことを言うのかいぶかしかったが、かれが葬儀所勤務について強いコンプレックスをもっていることは後に知った。

小生が赴任したころ、瑞江葬儀所はリニューアル・オープンしたばかりであった。施設を全面的に建て替え、火葬炉は20台そなえていた。そのうち、同時に稼働する炉は10台だった。炉の構造はロストル式といって、高い台の上に棺を乗せ、焼かれた骨を台の骨組みの間から底に落とすというものだった。これだと、遺骨はバラバラの状態になる。それに対して苦情を言う遺族もいた。関西では、炉は台座式(炉の台座の上に直接棺を置く)で遺骨はほぼ人体の面影を残している。遺骨はそうあるのが当然ではないかと言うのである。もっとも関西では、遺骨はのどぼとけといわれるところを中心に、ほんの一部を収めるにすぎない。そのため骨壺は三寸ほどの大きさしかない。東京では骨壺は七寸が標準である。

瑞江葬儀所での二年間で、小生は1万4千人の遺体を骨にした。煙にしたと言わないのは、今どきの火葬炉は煙を出さないからである。一体を焼き終わるには、標準で70分ほどかかる。枯れて小さな老人の遺体はそれよりも十分ほど短い。子供もやはり短い。小生は炉の後ろ側にまわって、のぞき窓から遺体の焼ける様子を何度か見たことがある。棺は、炉の奥に死者の頭が向くように置かれる。ガスバーナーで棺に火を浴びせる。その焼ける様子を炉の後ろ側から見ることとなるが、まず棺の上部の板が激しく焼ける。すると死者の頭部がむき出しになり、髪の毛がメラメラと燃え上がった後で、身体が徐々に焼けていく。その際に死者の体が海老のように丸くなり、起き上がったように見えると世上言われていたので、その真偽を確かめようと注目したが、遺体は起き上がることなく、じわじわと焼けていった。

焼きあがった骨は、家族・縁者によって収骨される。職員がその合図を放送する。次のような口上である。「申し上げます、申し上げます、誰某様のご収骨の準備が整いました。ご遺族の皆さまは第〇収骨室にお出まし願います」。焼きあがった骨の状態は、ある程度死者の生前の健康を反映しているようである。健康だった人の骨は白く軽やかな印象を与える、一方癌などの宿痾を病んだ人の場合は、一部骨が変色し、形もよくない。小生は焼きあがった骨をそれこそ数多く見たものだが、そのうち一種のノイローゼ状態に陥ってしまった。街で行きかう人の姿を見ると、だれもが骨に見えてしまうのである。電車のなかで隣り合わせた客の顔は、頭蓋骨に見える。その頭蓋骨が上あごをがたがたと揺する。ガムを噛んでいる様子がそのように見えるのである。また向かい側の席に美しい女性がすわっているのも、昔学校の理科室で見た骸骨標本が、席に座っているように見える。

赴任後しばらくして、前任の所長と前々任の所長が遊びにやってきた。酒を飲みかわしながら、苦労話などするうちに、前々任の所長が、自分は赴任早々炉の中に閉じ込められたことがあった、あなたも閉じ込められないように気をつけたほうがよろしいと忠告してくれた。新任の所長は誰でも閉じ込められるかというと、そうでもないらしい。前任の所長はそんな目にあわなかった。おそらく人を選んでいるのだろう。小生もまた、一度として炉の中に閉じ込められたことはない。そんな目にあったら死ぬほど恐ろしく感じるだろう。

近隣の商店街からも小生を訪ねてきた。話を聞くに、葬儀所内で営業をさせてほしいということだった。葬儀所内では控室で小宴会を催せるようになっていて、相当数の客が見込めるので、是非地元の商店街に出店営業させてほしいというのであった。そのことに関しては、所長の小生には裁量権がないので、是非公園協会本部に申し入れしていただきたいと答えた次第である。地元との関係では、区役所のほうも気を使っていた。区役所の担当部長が小生のところへやってきて、是非裸の付き合いをお願いしたいといった。どんなことかというに、この近所に健康ランドがあるので、そこにくつろぎながら文字通り裸の付き合いをしたいと言うのである。

公園協会では、遺族の接待用員と売店の売り子を雇っていた。接待用員のほうはもともと公園協会の採用したものだが、売店のほうは、兄弟団体である慰霊協会の職員だった。それを公園協会で引き継いだわけだが、その二つのグループの間で仲がよくない。また、接待用員同士も仲が悪く、かれらを直接監督する管理係長から、なんとかしてほしいと直訴された。そこで小生は、人間関係をかき回していると目される女性職員を他の職場に移動させることにした。その女性職員の兄がやはり当所の現場職員としており、その兄が血相を変えて抗議しにきたものである。

現場の職員は十数名を数えた。本業は火葬業務だが、副業として庭園の手入れをしていた。瑞江葬儀所はかなりな規模の庭園を有していて、それを職員たちが自前で手入れしていたのである。職員らは、公園緑地部のつてをたどって、ほかの公園の整備部隊から造園の知識を仕入れていた。かれらの最大の願いは、瑞江葬儀からほかの公園に異動することだった。いままでそんな例はなかったのだが、小生がかれらの願いを人事当局に伝えているうちに、かなえられるようになった。

それにはあるいきさつが働いた。江東区で行方不明になった幼女が、ばらばら死体で発見されたという事件が起きた。その事件の進展の比較的早い時期に、頭部と四肢を欠いた胴体だけの死体が遺族のもとに返されて、それが瑞江葬儀所で火葬に付された。なんともいえず悲惨なことだが、その際に意外なことが起きた。取材に押し掛けた記者の連中が職員の姿が映った写真を新聞等に載せたのである。我が職員には独特の主張があって、自分らの姿が衆目の前にさらされるのを忌み嫌っていた。その忌むべき事態が起きたと言うので、人事部局もそれなりに対応せざるを得なくなった。とりあえずメディアに抗議する姿勢を見せたうえで、現業職員には異動の可能性を与えるというものだった。その新たな動きに応じて、他の公園に異動するケースが、小生が所長でいた間に実現したのである。

遺骨はすべて収骨してもらうというのが葬儀所の基本方針だったが、どうしても収骨できずに漏れるものがある。それが一年間で馬鹿にならない量になる。最終的には松戸にある八柱霊園の一角に埋葬するのだが、それに先立って、金属類を取り分ける作業をした。冥途の川の渡し賃として棺内に置かれていたコインとか、入れ歯に使われていた金とかが、一年分たまると結構な量になる。それを日本橋の日銀に持ち込んで、都の歳入に繰り入れる手続きをするのである。

そのころ、政府は南方諸島で旧日本兵の遺骨収集を行っていて、収集した遺骨を焼骨したうえで千鳥ヶ淵の慰霊施設に収めるということを行っていた。その焼骨を瑞江葬儀所で請け合っていた。小生はそれに大きな疑問を感じた。アメリカでは、ベトナムで死んだ米兵の遺体を、一人単位で復元したうえで遺族に引き渡しているという。それに比べて日本政府の対応はあまりにも無責任ではないか。十把一絡げで焼骨して、まとめて埋葬するというのは死者を侮辱したやり方であり、英霊に対して申し訳が立たない。そう思った小生は、厚生省の役人にその旨を申し入れたところだ。

こんな具合で、瑞江葬儀所での二年間は、色々なことを考えさせられた。なお、小生の後任は、清掃局にもいたことのある知り合いの男だった。その男とも、健康ランドで裸の付き合いをしながら職を引き継いだところである。

なお、前回死の迎え方について書いたあとで、今度は死者を送り出す立場に立ったことを書いた。これは偶然のことで、他意はない。




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