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日本のレイプ容認文化 落日贅言


先日「日本はレイプ天国か」と題した小文を小生のブログ「続壺齋閑話」に投稿した。これはハワイ在住のアメリカ人デヴィッド・T・ジョンソンが雑誌「世界」に投稿した文章「日本でレイプは犯罪なのか」に触発されて書いたものである。ジョンソンは、日本の刑事司法の場では、女性へのレイプ事件が真剣に扱われておらず、したがって被害者の権利が侵害される一方で、加害者はやりたい放題という状況が生まれている、という危惧を示していた。また、これは刑事司法だけの特殊な問題ではなく、日本という社会が抱えている構造的な問題を反映しているのではないか、といった問題意識も感じさせた。小生は、一人の日本人として、ジョンソンの指摘を謙虚に受け止め、この問題、つまり日本のレイプ容認文化ともいえる問題領域について、掘り下げて考えてみたいと思った次第だ。

日本で発生するレイプの件数がどれくらいになるのか、はっきりとはわかっていない。わかっているのは、警察がレイプに関連して相談を受けた件数だ。これを専門用語で認知件数という。その件数は、犯罪統計で見ると、人口10万人あたり1.0人である。アメリカは42人になるというから、アメリカと比較すれば少ない。だが、日本の場合には、レイプの被害者の大部分は他言しないといわれる。だから認知件数だけでレイプの実態はわからない。内閣府が最近行った調査によれば、レイプにあって警察に通報したのは、17人に1人だったという。

強姦に強制わいせつを加えると、件数は10万人あたり5.3になり、アメリカの8倍である。いずれにしても、絶対数で見れば、日本におけるレイプはアメリカより少ない。ヨーロッパ諸国のケースについてはどうか。強姦と強制わいせつを加えた性暴力の発生件数は、2019年時点で見ると、フランス84.8、ドイツ48.8、イギリス265(これは2018年)、お隣の韓国が45.9だった。その年の日本の件数は5.0であるから、日本の性犯罪件数が諸国より飛び抜けて多いとはいえないようである。

だが、以上の比較は、あくまでも認知件数を基準にしてのものだ。内閣府の調査をそのまま受け止めると、性犯罪にあった人の17分の1しか警察に届けないのであるから、実際の数は、10万人あたり5.3の17倍、すなわち90ということになる。この数に現実性があるのであれば、日本ではアメリカより倍の性犯罪が起きていることになり、アメリカ人から、日本は性犯罪が横行していると言われても、有効な反論ができないかもしれない。

ともあれ、日本ではレイプの被害者が問題を公にするのは、非常に限られたケースである。被害者に通報を思いとどませるような文化的・社会的背景があるのだと思う。ある統計によれば、加害者は身近な人であることが多く、見知らぬ人からいきなりレイプされたケースは1割に過ぎないという。そんなこともあって、自分自身の油断を責めたり、また羞恥心にさいなまれたりして、通報をためらわせるのであろう。通報しても、警察や検察など刑事司法当局が自分に有利に取り計らってくれる可能性は低い。かえって、取り下げるように説得されるほどである。それでは積極的に通報しようという気にはならないだろう。

刑事司法がレイプの立件や起訴に消極的なのは、証拠固めが非常に困難だからといわれる。レイプは、ほとんどの場合密室での出来事であり、当事者以外真相を知る者はいない。加害者はだいたいの場合、強制ではなく合意の上のことだと主張する。いやなら抵抗すればよいのに、抵抗しなかったのは合意している証拠だという理屈をたてる。またその理屈が刑事司法の現場でまかりとおってきた。2023年に刑法が改正され、強姦の要件が大きく見直されるまでは、レイプの要件は厳しく制限されていた。

2023年の刑法改正以前には、レイプ事件で有罪判決が出るには、被害者が抵抗することが著しく困難となるほどの暴行または脅迫がなければならなかった。大多数の被害者は、レイプされるに際して恐怖等の感情から抵抗できないほどのショックを受けるという。そういう場合には、レイプの要件に欠けると判断されるのである。刑法改正後は、同意なき性交はレイプにあたるとされたが、具体的にどんなケースが同意なき性交なのか、それは今後の裁判の運用のなかで明らかにされるだろう。

いずれにしても、かつてはレイプ要件が厳しく設定されていたために、検察官が訴追するに際して、「被害者が抵抗することが著しく困難となるほどの暴行または脅迫」があったことを、具体的な証拠にもとづいて証明しなければならなかった。それはかなりむつかしいことである。日本の検察は、レイプ事件に限らず、有罪判決が出ることがほぼ確実に予見できるものに限って訴追する傾向がある。なにしろ起訴された事件が有罪になる割合は99パーセントなのである。それをどう考えるかはまた別の問題であるが、レイプの場合には、検察官が起訴に踏み切る割合の少なさにつながっている。検察官が起訴に慎重になるのと並行して、警察官は立件に慎重になる。ジョンソンによれば、レイプ事件で逮捕と起訴に至るのは5―10パーセントであり、最終的に有罪になるのは1-2パーセントである。これでは被害者も刑事司法への信頼を失うであろう。届け出ても加害者が罰せられる確率が非常に低いのであれば、届け出ようという意欲をそがれるであろうから。

レイプ事件について起訴に慎重な姿勢は、検察審査会にも指摘できる。ジョンソンは、著書「検察審査会」(岩波文庫)の中で、伊藤詩織さんのケースを取り上げて、検察審査会が彼女の訴えを退けたことを批判している。被害届を受けた警察は、彼女が酩酊して、自分の意思で歩いているようには見えない状態で、男にホテルに連れ込まれたことを監視カメラで確認し、また彼女が意識朦朧としていたとのタクシー運転手の証言も得ていた。逮捕は見送ったものの、書類送検はした。その送検を受けた検察は、嫌疑不十分で不起訴とした。それに対して伊藤さんが検察審査会に申し立てた。だが検察審査会は不起訴相当の議決をした。

伊藤さんの事件では、検察官も男の悪質性を認識していた。「検察側としては、有罪にできるよう考えたけれど、証拠関係は難しいというのが率直なところです。ある意味とんでもない男です。こういうことに手慣れている。他にもやっているのではないか」と検察官は言うのであるが、それでも起訴は出来なかった。レイプの犯罪要件が厳しすぎたのである。この事件は大きな社会問題になったこともあり、多くの教訓を踏まえて刑法が改正され、レイプの犯罪要件が「同意のない性行為」に改められるきっかけになった。

この事件をめぐって、グロテスクな反応が起きた。レイプした男より、された女が悪いというような言説が溢れたのである。とりわけ、某女国会議員が伊藤さんを中傷するSNS上の投稿に賛同した。こういう反応を見ていると、日本にはレイプ容認文化が根付いているのではないかと思わされる。男が女とやりたがるのは自然な衝動である。だから男に対して女が挑発的なことをしてはいけない。男が女と多少無理をしてやったとしたら、その責任は女にもある、といった考えが日本には根強く生きているようである。それを最もグロテスクなかたちで表現しているのが、ほかならぬ女性であることに、この国の病理を感じる。

最近は、沖縄での米兵による性犯罪が多発している。それに対して日本政府は見て見ぬふりと思われる態度をとっている。さすがに悪質なケースは日本側による裁判にかけられるが、断固とした処罰は期待しづらいのが現状である。日本人同士でも、レイプは加害者のやりたい放題に近いありさまなのだから、米兵が日本の女性をレイプするのもやりたい放題ということになるのであろう。逮捕された米兵に、自分が悪いことしたという意識は感じられない。米兵は、日本ではレイプはやりたい放題と認識して、レイプに及んでいるフシがある。最初からレイプを目的として、集団で若い女性を襲ったりしているのである。

2023年の刑法改正によって、レイプの犯罪要件が変わったことで、今後は伊藤さんのようなケースは、検察が起訴しやすくなると考えられる。厳しすぎる犯罪立証要件が緩和されるからだ。原則的には、伊藤さんの同意がないまま、性行為がなされたことを証明すればよい。だが、何が同意のない性交かをめぐっては、議論が分かれる余地があり、実際の判決の積み重ねの中から、今後の動向が決まっていくのだと思われる。その場合に、刑事司法をめぐる日本の文化的な背景が問題となる。日本人の大多数が、レイプに対して寛容な態度をとれば、裁判の現場でも、レイプに寛容な判決が出るであろう。要するに、レイプについての国民意識が変わらなければならない。伊藤さんの誹謗中傷に加担した某女国会議員が大手を振り続けるようでは、日本のレイプ容認文化は生き続けるであろう。

レイプの犯罪要件の変化にともない、性犯罪をめぐる冤罪の増加も予想される。アメリカやイギリスでは、性犯罪にかかわる冤罪事件がかなりな数になるという。レイプ告訴の2-8パーセントが偽りのものと推定されている。日本でも同じようなことが起る可能性は否定できない。かつて「それでもボクはやってない」という映画が、痴漢と間違えられた青年の苦悩を描いていたが、それと同じような事態が多数起きることは予想される。それにどう対応するかは、或る意味日本社会の成熟度にかかわることであろう。




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