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井筒俊彦の思想


井筒俊彦は、日本人としてはスケールの大きな思想家だ。活躍の舞台が日本に限定されておらず、それこそ世界を股にかけた活躍ぶりを見せたというだけではない。思索の対象が全人類をカバーするほど広範囲だ。こういうタイプの思想家は、井筒以前には日本にはいなかった。国際的な名声という点では、鈴木大拙などは先駆者といえるが、大拙の場合には、ほとんど禅の領域に特化し、禅が国際的な関心を高めるのに乗った形で名声を高めたというような具合である。ところが井筒の場合には、彼の達成した学問が国際的な関心を高めることにつながったという点で、自ら名声を呼び寄せた。じつにユニークでかつスケールの大きな思想家だといえる。その井筒を小生は、最近になって読み始めたのだが、なにせ古希を過ぎて頭が固くなってきている頃合いなので、どれほど正確に井筒の主張が理解できているか心もとないが、井筒は噛んで含めるような、わかりやすい文章を書くので、小生のように頭の悪い老人でも、なんとかついていけた。

井筒は海外での活動期間が長く、また一定時期までは、外国語で文章を発表してきたので、日本の読者には馴染みが薄かった。ところが1979年のイランでのホメイニ革命をきっかけに、長い外国暮らしをやめて、日本を活動の舞台とし、また日本語で文章を発表するようになった。それが「意識と本質」以下の一連の業績となって現われ、小生のような普通の日本人でもたやすく読めるようになった。1979年といえば、井筒は六十五歳になっていたわけで、そんな年から日本人に向けて、自分の思想を語るようになったわけである。その旺盛な活動力には頭の下がる思いである。

井筒俊彦の思想の特徴を、ごく単純化していうと、人間の意識の構造を明らかにしたことだ。人間の意識は、理知的な側面だけではなく、もっと奥深いものだということを明らかにした。人間の意識を理知的な側面に限定して考えるのは、デカルト以来の西洋思想の伝統だが、それは一面的な見方に過ぎない。デカルト的な見方は、人間の意識のうちの表層部分だけに着目したもので、それのみを以てしては、世界の全体像は正確には捉えられない。世界の全体像を正確にとらえるためには、意識の機能をフルに発揮させなければならない。ところで意識とは、表層部分だけでなりたっているわけではない、その下に深層の領域が広がっている。つまり、人間の意識は重層的な構造で成り立っているのである。意識の深層について、西洋思想の伝統は、軽視あるいは無視してきた。フロイトが登場して以来、無意識とか下意識というものが注目されるようになり、ユングなどは、意識の重層構造のモデル作りまでしたが、こうした試みはまだ、学問の一部の領域にとどまっており、したがって例外的な主張と見なされており、主流の考え方にはなっていない。そういう情況を井筒はひっくりかえして、人間の意識の重層的な構造を前提にして、世界の正確な把握に乗り出したわけである。こうした井筒の試みが世界的な注目を浴びるようになったのは、井筒の学問が東洋思想の特徴をわかり説明しているという事情もあったが、基本的には、人間の意識が重層的な構造を呈しているという見方が、次第に世の中に浸透し始めたからではないか。

西洋思想は、ニーチェの登場以来、既成の認識枠組みを解体する動きが出始めていた。ニーチェはキリスト教的な倫理に敵対したわけだが、それを超えて、西洋思想を根本で支えているものをあぶりだし、それを解体しようとした。そういうニーチェの問題意識は、二十世紀後半になると広い範囲で受け止められ、いわゆるポストモダンの思想運動へとつながっていった。ポストモダンは、デリダのデコンストラクション(存在解体)にせよ、ドゥルーズ・ガタリのノマディズムにせよ、西洋思想の伝統的な認識枠組を解体し、立て直しをしようとするところに最大の意義を持つといえるが、そうした動きに井筒の思想も棹をさしているところがある。つまり井筒の思想は、井筒自身の主観的意図を超えて、西洋思想の立て直し運動の動きにつながっているのである。

井筒自身の主観的な意図は、まず東洋思想全般に共通する意識の捉え方を究明することであった。井筒は、語学に特異な才能があって、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語などさまざまな言語を読み書きすることができるそうだ。その特異な才能を生かして、東洋の様々な思想を比較研究的な問題意識から読み込んでいった。その結果たどりついたものは、東洋の思想には大きな共通点があるという確信だった。その共通点とは、人間の意識には表層的なもののほか深層意識というものがあって、重層的な構造を呈している。しかして表層意識で捉えられるのは、対象のほんの一部、それも幻に類したようなもので、真実の存在は、深層意識によってはじめてとらえられるとする考えだった。表層意識で捉えられるのは、我々人間の日常的経験世界ということになるが、それについて仏教は仮象であるといい、イスラーム神秘主義は夢であるといい、インド哲学は幻であるといって、否定的な見方をした。一方、真実の存在つまり真実在は、深層意識の前に初めて開けてくるものであり、それは日常的経験世界が分節された姿で現れるのに対して、分節以前の混沌とした姿で現われるとした。その混沌としたものが、自ら分節し、あるいは意識によって分節されることで、日常的経験世界が成立する、というのが、東洋の諸思想に共通した大きな特徴である、と井筒は考える。

こういうアイデアは、諸文化を横断的に比較研究することによってはじめて生まれて来る。それには、諸文化のテクストを読みこなすための特異な能力が求められる。井筒にはそういう特異な能力が備わっているのである。誰にも備われるものではないから、井筒はある種の天才といってよい。天才にしてはじめてできる仕事を井筒はやったということだろう。

さて、井筒俊彦は東洋思想に共通する意識の捉え方を、どのようにして体得したのか。東洋思想は、深層意識を重視し、その深層意識に映る世界こそが真実在の姿だというわけだが、そういう主張が成り立つためには、深層意識というものを自らの体験として提起し、そこに映ったものを具体的なイメージとして提示することが必要なのではないか。というのも、深層意識というものは、あくまでも作業仮説であって、実在するものではないという考えが強固に存在し、また、深層意識が捉えたという独特の対象についても、それは幻影にすぎないといったシニカルな見方が強いからである。ユングは、深層意識に映った世界を、曼荼羅に類似したイメージとして提示しているが、それの実在性を信じる人は、非常に限られているというのが実情だろう。

ところが井筒は、深層意識についても、またそこに現出するという混沌世界についても、その実在性に疑問を抱かない。人間は、誰でも努力すれば、そうした深層意識の世界を体験できるのだと、当然のことのように言う。しかし、そう簡単なものではなかろう。そういう体験は、普通の言葉では神秘的な体験と言われる。神秘的な体験とは、そうまともには体験できないということを含意している。特殊な能力をもった人、たとえばイタコのような人が、ある種のエクスタシーに入ることで、はじめてあらわれるものだというふうに考えられている。ところが井筒は、誰でもそういう体験ができると言う。そういう体験は、たとえば座禅とか止観とかいった手続きを介して、誰でもできる、というのだが、少なくとも小生にとっては、そんなに簡単には思われない。というより小生には、どんなに座禅をしたところが、自分の深層意識に達することなどできそうもない。それが井筒には、ごく簡単に達することができるというのである。

ともあれ、井筒俊彦の壮大なところは、東洋思想の枠組みを使って、人間全体についての思考のパターンを説明しようということだ。とりあえずは、西洋思想と東洋思想を対象にして、それらを融合させる形で、この両者に通じる思考のパターン化をめざしていたようだが、その場合に、東洋思想を上位の枠組みとして、それに西洋思想を統合しようと図った、というのが井筒の試みの方向性だったのではないか。もっともこの試みは壮大なものだ。井筒と雖も、単独でやれることではない。実際井筒は、問題提起をしただけで、死去したのであった。


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