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井筒俊彦「イスラーム文化」を読む


井筒俊彦という人を、筆者はこの年(古希)になるまで知らなかったが、たいへん迂闊なことだったと思っている。イスラーム文化に造詣が深いほか、インド仏教や中国思想にも通じており、それらを土台にして、東洋思想として共通する要素を探求した人らしい。その業績については、追々読み進んで行こうと思っているが、とりあえず「イスラーム文化」と題した著作(岩波文庫)を取り上げたいと思う。

井筒俊彦は、まずイスラーム文化の研究からスタートしたという。彼のコーランの日本語訳は定評があると聞いているが、筆者はコーランを読んだことがない。それはともかく、日本では、イスラーム教を含めたイスラーム文化を研究する人は非常に少なかったわけで、井筒は、あの大川周明と共に日本のイスラーム研究の第一人者といってよい。戦時中は、大川の下でイスラーム研究に従事したこともあるという。

この「イスラーム文化」という本は、昭和56年の春に行った三回連続の講演を活字化したものだという。この講演は経済団体の委嘱を受けて行ったもので、聴衆はみなビジネス関係者だった。そんなこともあって、非常にわかりやすい話し方になっているし、それをもとに活字化されたこの本も分かりやすい。この本を読むと、筆者のようにイスラームについてほとんど何も知らなかった者でも、多少の知見を得ることができる。多少というより、イスラームについての基礎的な知識といってよいのではないか。

三回分の講演の題名は、Ⅰ宗教、Ⅱ法と倫理、Ⅲ内面への道となっている。これを見ただけでも、この本が何を書いているか、ある程度の予想がつくと思うが、それを大雑把に言うと、世界宗教としてのイスラームを、主にユダヤ教及びキリスト教との比較において特徴づけることと、そのイスラーム内部での分派、つまり主流派としてのスンニー派と非主流派としてのシーア派との間の対立とその宗教的・文化的背景といったことについて、書いている。前半の世界宗教としてのイスラームについては、「Ⅰ宗教」で概括的な考察をし、「Ⅱ法と倫理」でイスラーム文化の祭政一致的特質について語る。また後半のイスラーム内部の分裂については、「Ⅲ内面への道」で語る、というような体裁になっている。

宗教としてのイスラームを井筒は、ユダヤ教及びキリスト教と同じ土壌のなかから生まれたとする。この三者とも、一神教であり、かつ啓示宗教である点で一致している。これら三者に比較すると、インド仏教をはじめ他の宗教は、著しく性格を異にする。もし宗教の条件に一神教であることをあげるとすれば、ほかの宗教は宗教を名乗る資格がないということになり、じっさい熱心なイスラーム教徒はそう思っているわけであるが、そのへんについては、井筒は深追いはせずに、宗教としてのイスラームが一神教を前提とした啓示宗教であるということを強調するのである。

宗教としてのイスラームが、ユダヤ教とキリスト教、特にキリスト教と大きく異なるのは、その祭政一致的な性格だと井筒は言う。キリスト教では、神の国と王の国とが截然と区別されているように、聖と俗とを区別し、宗教と政治・文化とを互いに切り離そうとする傾向が強い。それに対してイスラームは、基本的には、宗教と政治・文化とを取り離そうとはしない。両者が渾然と一体化している。宗教と政治・文化とは別のものではなく、同じものであって、宗教の真理を世俗世界で実現することをめざす、というのがイスラームの理想である。というわけで、イスラームは基本的には祭政一致主義をとっているのである。それゆえ、宗教指導者が政治を指導することが理想のあり方とされる。

以上は、宗教としてのイスラーム全体に共通する傾向であるが、特に主流派のスンニー派によりよく当てはまる。イスラームに、スンニー派とシーア派の対立があることはよく知られているが、その対立はどこから生まれて来るのか。それについて井筒は、この講演の第三回「Ⅲ内面への道」でくわしく考察している。イスラームには、上述したように、信仰としての内面的な側面と、制度としての外面的な側面とがあるわけだが、そのうちどちらへより強く傾くかによって、宗教としてのイスラーム内部に分派が生まれる。主流派のスンニー派は、外面的な側面に強くこだわるのに対して、非主流派のシーア派及び異端と呼ばれるスーフィズムは、内面性へ強くこだわる。内面性とは、人間の個人としての宗教的良心をさす。

この対立には、人種の特徴も絡んでいると井筒は言う。主流派のスンニーはアラブ人の気質に合っているのに対して、シーア派はイラン人の気質に合っているというのだ。ということは、アラブ人の間で始まったイスラームが、イラン人に広まる過程で、イラン人の人種的な気質に影響されるかたちでシーア派が成立した、そのように井筒が考えているように、この本からは伝わって来る。イラン人というのは、もともとゾロアスター教の善悪二元論とか、極めて思弁的な傾向をもっていたわけだが、そうした人種的な傾向が、イスラームをシーア化させたということらしい。

人種的傾向が宗教に深刻な影響を及ぼすというのは、おもしろい指摘だ。ちなみに井筒は、イラン人の人種的特質を、「思考においては徹底的に論理的、存在感覚においては極度に幻想的」だと評している。それに対してアラブ人は、ずっと実際的な性格だということらしい。なお、このイラン人についての定義らしいものを参考にして、日本人を評したらどうなるか、興味深いところだ。小生などはさしずめ、「思考においては徹底的に非論理的、存在感覚においては極度に実際的」というふうに評したいと思うが、皆さん如何でしょうか。


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