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イスラーム哲学の原像:井筒俊彦


井筒俊彦は、講演集「イスラーム文化」において、イスラーム文化を特徴づけるものとして三つのものをあげた。主流派としてのスンニー派、反主流派としてのシーア派、そして異端思想としてのスーフィズムである。そのうち、スンニー派とシーア派の基本的な特徴について、「イスラーム文化」では触れていたわけだが、スーフィズムについては、その名をあげるだけで詳しい言及はしなかった。そのスーフィズムについてもっぱら紹介したのが、この「イスラーム哲学の原像」である。

スンニー派はアラビア人の世界で支配的であり、一方シーア派とスーフィズムはイラン人の世界で支配的であった。井筒によれば、アラビア人というのは基本的には世俗的な考えかたをする民族であって、それがスンニー派イスラームの世俗主義的傾向につながっているということらしいが、それに対してイラン人というのは、非常に思索を好む傾向があって、深遠な思想を展開して見せた。そういうイラン人の傾向は、一方でシーア派のような純粋な宗教の追及へ向かわせながら、他方ではスーフィズムのような神秘主義的傾向を助長したということらしい。スンニー派から見れば、シーア派自体が異端的なのであるが、その異端的なシーア派から見ても、スーフィズムは更に異端的であるということになる。

なぜ、そう思われるのか。スーフィズムの思想家には、殉教して殺された者が多いが、その理由は、だいたいは神をなみするものだということにあった。スーフィズムの体現者といわれる人には、「我こそは神である」と主張するものもあらわれたのであるが、それはスーフィズムにとっては当然の主張であるということになる。ところがそれが、スンニー派はもとよりシーア派にとっても、神を人間化するという意味で、絶対に容認できない、異端の思想に映ったのである。

スーフィズムは神秘主義と言った。神秘主義というのは、人間の理性的な認識を超えた所に真実を求めようとする傾向のことである。人間は通常、理性的な能力を駆使して世界の認識に努めている。その結果得られるのは、さまざまな現象として分節化された世界像である。ところがこうして得られる世界像は、本来の世界像の一端にすぎない。本来の世界像を捉えるためには、理性的な認識を超えて、意識の深淵に達しなければならない。その意識の深淵に映った世界は、存在そのものである。その存在そのものが、分節化されてあらわれたものが、我々が通常理性によって捉えた世界なのであるが、それは本来の世界にとっての、ほんの表層をなす部分にすぎない。そう考えて、人間の意識の深層にまで到達し、そこで見えたものを基準にして、世界を把握しなおすこと、それが神秘主義の目的となる。

こういう神秘主義の考え方は、井筒によれば、イスラームのスーフィズムにもっとも典型的に現われるのであるが、スーフィズムの専売特許ではない。同じような考えかたは、仏教や道教、あるいは宋学などにも見られる。つまり東洋思想には、多かれ少なかれ神秘主義の傾向が強いというわけである。神秘主義は、理性によって捉えられるような分節化された世界像の彼方に、分節化される以前の混沌としたものを置き、それを絶対存在とかあるいは無とか呼ぶ。そしてその絶対存在とか無というものが、自己分節化をすることによって具体的な現象があらわれると考える。

そこに井筒は、東洋思想に通じる特徴を見るのであるが、そういう見方は、西田幾多郎などにも見られる。西田も、分節化される以前の混沌したものを絶対無というような言葉で呼び、その絶対無が自己限定することによって現象的世界が成立すると考えた。西田のそうした考え方は、おそらく仏教から来ているのであって、イスラームからの直接的な影響はないと思われるが、なにしろイスラームと仏教とは、神秘主義を通じてつながっているので、その神秘主義的な傾向が、仏教を通じて、西田にも見られることに不思議はない。

仏教では、分節化される以前の混沌とした状態を未発といい、分節化された状態を已発という。これに対してスーフィズムでは、未発に相当するものを「存在」そのものとし、已発に相当するものを存在の顕現という。未発である存在が、自己運動をして顕現することによって、已発としての現象的世界が現れると考える。これは認識レベルの問題のように見えるが、認識の問題であると同時に、世界の存在のあり方でもある。世界は、単に現象として(平板なかたちで)存在するだけではなく、すべての現象の原因である存在そのものが自己顕現して現象世界を構成するという重層的な構造になっている。その重層的な世界のあり方に対応する形で、我々の意識も、現象を認識する表層の意識の底に、存在そのものを把握する深層意識があるといえる。つまりスーフィズムは、ユングを想起させるような形での、意識の重層性を主張しているのであり、その意識の重層性を意識的にコントロールすることで、世界の正しい把握をしようとするものなのである。

ここで、スーフィズムのいう神が問題となる。というのも、イスラームは、神に究極的な原因を求める宗教として、一神教の特徴をもっとも強く備えているわけだが、スーフィズムのいうところの絶対無とか究極の存在というものと、神との関係がここで大きな問題となるからである。スーフィズムは、神よりも絶対存在を上位に置く。普通の考えなら、最高の存在としての絶対存在を神と等価とすべきところなのだが、スーフィズムにおいては、神は絶対存在が最初に自己顕現したものなのだ。ということは、神は相対的な存在に過ぎないということを意味する。そこがスーフィズムが異端として厳しく弾圧された所以なのであって、スンニー派やシーア派から見れば、スーフィズムは神を貶める許しがたき異端と見えるわけである。

ともあれ、この書物を読むと、イスラームの哲学的伝統の流れがよく理解できる。なかなか優れた書物である。




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