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本質実在論と意識の階層構造:井筒俊彦「意識と本質」


本質に普遍的本質マーヒーヤと個体的本質フウィーヤがあるとして、個体的本質に実在性を認めるのは理解できる。そもそも個体とは実在する個物を想起させるからだ。これに対して普遍的本質に実在性を認めることは、少なくとも西洋哲学的な思惟に慣れている者には、むつかしいのではないか。何故なら普遍的というのは、あくまでも人間の思惟が作り出したもので、したがってあくまでも概念的なものだからだ。概念は実在とは異なった範疇に属するものである。ところが、この普遍的本質に実在性を認める考え方が、東洋思想には珍しくない。というより、普遍的本質に実在性を認める考え方のほうが、東洋思想では主流となっている、と井筒俊彦は主張する。

こうした普遍的本質に実在性を認める考え方を井筒は、本質実在論と呼んでいる。一口に本質実在論といっても、いくつかのパターンがあるという。井筒はその代表的なものを三つ上げている。第一は、普遍的本質マーヒーヤは端的に実在するとするものである。ただし、それは存在の深部において実在するのであって、存在の表面に現われているようなものではない。どういうことかというと、我々は普通表層意識で対象を概念的にとらえるが、それは対象を表面的にとらえているに過ぎないのであり、対象を存在の深部においてとらえるためには、深層意識によってとらえる必要がある。存在と意識とは基本的には対応するものであり、表層意識は存在の表面を捉え、深層意識が存在の深部を捉えるというふうな対応関係になっている。深層意識が捉えた存在の深部こそは、実在するといえるものである。このようなタイプの本質実在論として井筒は、宋学の「格物窮理」の説をあげている。

第二は、深層意識の領域に元型(アーキタイプ)と呼ばれるものを想定し、これが対象の普遍的本質だとする説である。この説によれば、アーキタイプがさまざまなイマージュとなり、そのイマージュが表層意識に働きかけて、対象の把握をもたらす。いわば、カントのカテゴリーを横引きしたような考え方で、カントが対象をカテゴリーに当てはめて認識するというところを、アーキタイプに基づくイマージュが、その枠組みの役割を果たすとするわけである。このタイプの本質実在論の例として井筒は、易の六十四卦、密教の曼荼羅、ユダヤ教神秘主義カバーラーのセフィーロートの説などをあげている。これらの元型は、深層意識の領域に厳として実在し、人間の認識を成り立たせているというわけである。

第三は、第一の型が深層意識によってとらえる普遍的本質を、表層意識によって、理知的な形でとらえる。普遍的本質を、単に人間の表層意識が生み出した抽象的な概念としてではなく、実在するものと考えるわけで、その点ではプラトンのイデア論と似ている。プラトンのイデアも、永遠普遍の実在者として捉えられていた。このタイプの本質実在論の例として井筒は、孔子の正名論や古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーカの存在範疇論などをあげている。

これらの説を理解するうえでキーとなるのは、人間の意識の捉え方である。西洋哲学の伝統においては、人間の意識とは、デカルトの明証的な意識に代表されるように、あくまでも単純で曇りのない意識であった。フロイトがいわゆる深層意識を「発見」して以来、意識の重層性ということが云々されるようになったものの、それは精神病理学とかその周辺の学問領域にとどまり、哲学の主流においては、意識をデカルト的な明証で曇りのない単純なものとして捉える立場が支配的である。そこでは意識に重層的で階層的な構造があるとは、基本的には考えられていない。ところが上述した本質実在論のそれぞれのタイプは、第三のタイプに例外はあるものの、基本的には意識の階層性を前提にしている。その階層性の捉え方は、各説によって微妙な相違があるが、井筒はその相違をならして、単純なモデルを提示し、そのモデルに基づいて、普遍的本質の実在性について議論をすすめている。

井筒による意識の階層的な構造とは次のようなものだ。我々の日常的経験の舞台になるのは意識の表面である表層意識である。ここで我々の認識活動が展開されるわけだが、その認識の典型的なパターンは、個物を普遍者の現われとして認知する作用である。この場合、個物にはリアリティはあるが、普遍者にはない。普遍者は、人間の意識が生み出したもので、概念的・抽象的であると捉えられる。これに対して、意識のもっとも深い部分、あるいは最奥の場所に、深層意識或は無意識と呼ぶべきものがある。これは無意識といわれるように、人間によって意識されることはないが、人間の認識活動を深いところで支えている。人間は表層意識だけではなく、この深層意識の働きを同時に受けながら、世界についての認識とか把握とかを行っていると考えられる。以上は、意識を表層意識と深層意識に二分する捉え方だが、二分するだけでは、意識の働きを完全に理解することはできない。そこで井筒は表層意識と深層意識の間に、第三の領域をさしこむ。かれが阿頼耶識といっているのは、この第三の、中間の意識領域に属している。これは中間の領域であるから、深層意識と表層意識を媒介することが基本的な役割である。

このような階層的構造の意識を舞台にして、本質実在論は展開するわけであるが、そのうち第一のタイプは深層意識の領域において普遍的本質の実在を捉え、第三のタイプは表層意識の領域において普遍的本質の実在を捉える。もっとも複雑なのは第二のタイプで、これは意識の深層・表層、その中間という三つの領域がこもごも働いて普遍的本質の実在をとらえるとするのである。この第二のタイプについての議論を、井筒はもっとも力を入れて展開している。もっとも興味深いのはユダヤ神秘主義についての議論だが、それについては別に取り上げることにして、ここでは密教の曼荼羅と易についての議論を見ることとしたい。

密教の曼荼羅は、人間の深層意識がとらえた元型アーキタイプを視覚的イメージとして展開したものだと井筒は言う。胎蔵界・金剛界の両曼荼羅とも大日如来を中心として数多くの仏像が展開する図柄であらわされるが、この仏像の一つ一つが普遍的本質たる元型を表現している。これらの元型はそれ自体が直接表層意識に直接働きかけて認識をもたらすわけではない。それらは意識の中間領域でイマージュの形をとり、そのイマージュが表層意識に働きかけて具体的な認識を得るという形になっている。

易は、もともと占筮として発展したが、占筮として未来を占うばかりでなく、理を語るものとして、世界を解釈するものでもあった。その易の場合には、六十四の卦が元型に相当する。これも元型としての卦が直接人間に働きかけるわけではない。卦はそれぞれが六つの爻からなっているが、この爻の一つ一つに人間の運命とか世界のあり方についての手がかりが象徴的に込められている。我々はこの爻を通じて、世界を読み解く手がかりを得るというふうに考えられている。

曼荼羅といい、易といい、そこで普遍的本質とされているものは、仏像にしろ卦にしろ、視覚的なイメージである点に特徴がある。世界の普遍的な本質は、こうした視覚的なイメージとして、それが元型という形をとって、我々の認識作用を支えているというのが、第二のタイプの本質実在論の特徴である。




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