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禅の無本質的存在分節:井筒俊彦「意識と本質」


これまで、本質実在論の諸タイプについて見て来たが、その本質実在論の対極にあるのが禅である。禅は二つの点で、本質実在論とするどく対立する。禅はまず、本質そのものを認めない。本質の実在どころか、その意義そのものを否定するのである。禅はまた、神の存在を認めない。というか神の問題を回避する。これは禅が仏教の一つの流派であり、したがって宗教であるらしいことを考えると、奇異なことのように思えるが、そもそも原始仏教というものは、神を問題とはしていなかった。原始仏教の問題意識は、輪廻から超脱して存在することをやめることであった。存在することをやめれば、あらゆる煩悩から解放されるからだ。仏教というのはしたがって、自力で以て煩悩から解放されることを目的としており、そこに神が介在する必要はなかった。その原始仏教の問題意識を、禅はもっとも純粋な形で受け継いでいるのである。

本質とは、或るものが何であるかについて、その何であるかを説明するものである。普通の考えでは、何であるかという説明は、人間の意識が普遍的な概念として提示するもので、それ自体には実在性はない。それ故本質はあくまでも非実在的だというのが(西洋的)常識の考え方なのだが、諸々のタイプの本質実在論は、本質は実在すると考える。その実在する本質を、意識が捉えるという構図になる。実在するものを意識が捉えるのはごく自然なことだ。ところが禅は、本質は実在しないことは無論、そもそも世界の現実を、本質によって固定された「ロゴス的構造体」とは考えない。ここでロゴスというのは、現実の世界を言葉によって分節化する作用というほどの意味である。我々は言葉によって対象を定義するが、その定義とは混沌とした現象的世界から、ある個体的な対象を分節化する作用を意味している。禅はこの作用を妄念の働きとし、それによって分節化された世界を虚妄だとする。

だが、分節化の働きがなければ、世界は秩序だった相で我々の前に現われることはないだろう。我々が経験的な現実からある対象をそれとして意識するのは、そこに分節化の働きがあるからである。この分節化の働きがなければ、我々はある対象をそれとして地から浮かび上がらせて弁別することはない。我々の前の世界は混沌そのものだろう。我々が意識するのはただの混沌であり、そこに何らかの意味のある対象を弁別することはない。そのことから、我々が対象を弁別しているのは、かならずそこに分節化の働きが介在しているということが出て来る。それ故、禅と雖も、分節化そのものは認めざるを得ない。しかしその分節化は、本質に基づく分節ではない。本質抜きの分節ということになる。いったいどういう意味か。

禅には、無心、有心、執心という言葉がある。執心とは、本質によって分節化された対象に我々の意識が執着することを言う。それに対して無心とは、一切の分節化以前の状態を言う。それを無分節と井筒は言うが、世界とは本来そういうものなのである。その無分節の世界を我々の意識が分節化することによって、対象はそのものとして個別的に把握される。この場合その把握は、普通は本質の把握というかたちをとる。ところが禅は、それを虚妄として退ける。その代りに持ちだしてくるのが有心である。有心は、分節化された意識の状態であるが、その分節化は本質を介して行われるわけではない。本質は、対象を他のものから切り離し、他の者との差異によって定義するのだが、これとは違って、対象を他のものとの密接な関連において把握する。この意識状態にあっては、山は山としてだけ認識されるのではなく、自然全体との関連において認識される。

無心の状態は、分節化以前の混沌とした無分節の状態だと言ったが、それは禅の用語では無ということになる。その無は何もないということではなく、分節化された世界という形をとらないという意味で、混沌の状態をあらわしている。その混沌が分節化されて個体的な対象が浮かび上がって来るわけだが、その際に普通の意識、つまり執心は、本質を介在させて分節することによって、そこに虚妄の世界を成立させる。虚妄ではなく、本来的な世界のあり方とは、分節化される以前の無としての世界が、そのまま分節化された個体的な対象にも含まれていると見る。つまり山を山としてだけ見るのではなく、自然全体の一部として、自然との関連のうちに見るのである。執心を通じてのこうした見方は、すべての対象について成り立つ。禅の目標は、すべての対象を、無に関連付けて把握することなのである。

般若心経に「色即是空」という有名な言葉がある、色とは、本質によって分節化された形あるもののことであり、空とは虚妄という意味である。世に形あるものはすべて虚妄だというのがこの言葉の意味だが、その形あるものとは、あくまでも本質によって分節化されたものであって、すべての分節化された対象を、虚妄だとして退けるということではない。本質による分節化は人間の妄念による働きであるが、それとは違う分節化の働きもある。その働きを通じて得られた世界は、本質に基づく対象的世界とは異なった風貌を呈す。それがどのような風貌を呈するのか、言葉によって伝えるのはむつかしい。何故なら言葉というものは、本質によって対象を分節化するものだからだ。

禅の当面の目的は、本質を通じて現れた日常的な対象世界の虚妄性を否定し、一旦無心の状態に自己を高めることにある。無心の状態とは、あらゆる分節化に先立つ無分節の世界を直観的に把握することでもたらされる。世界の深淵に一気に達することをめざすわけだ。これは凡人にはなかなかできないことだが、只管打坐して妄念を振り払い、心を無にすればおのずから達することはできると禅師たちはいう。道元の曹洞宗は只管打坐をもっぱらとするが、臨済宗においては、いわゆる禅問答を大事にする。禅問答とは公案をめぐってなされるものだが、その公案は、一読して何を言っているのかわからないような不明瞭さを感じさせる。公案で言われているのは、合理的な解釈を阻むのである。そこに盛られているのは、禅の体験を言語化したものだが、そもそも言語化できないものをあえて言語化するために、わけのわからぬ言葉になるのである。漱石が考案をついに把握することができなかったのは、それを理知的に解釈しようとしたからだ。

ともあれ禅は、我々凡人の日常的な経験世界を虚妄として退け、真の世界を把握することを目的にしている。その真の状態を禅は、真如などと言っている。その真如の状態に達したうえで、その境地から世界を眺め直す、というのが禅の最終的な目的である。そうすることで禅は、何を得ようとするのか。悟りである。悟りというのは、なかなか説明ができない言葉である。あえて言えば、世界の真実を把握するということになろうか。禅は魂の救済とか、神への帰依とかは問題にしない。あくまでも悟りを得ることが禅の目標である。これを宗教とは、なかなか言えないのではないか。井筒も、禅は宗教ではないと言っている。宗教でなければ何か。哲学とか思想とか呼ばれるのがふさわしいのだろう。


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