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本質直観:井筒俊彦「意識と本質」


本質とは、西洋哲学の伝統においては、或るものが何であるかという、その何であるかについての定義というふうに考えられている。それは通常、類と種差という形で表明される。たとえば人間については、人間とは理性的な動物である、というふうに。動物が類で、理性的が種差である。本質についてのこの定義は、アリストテレス以来の西洋哲学の大前提になっている。

この定義は、個々の人間を人間についての普遍的な定義によって説明するものだ。個物が普遍者に包摂される形になる。その普遍者とは概念的なものであって、それ自体に実在性はない。実在しているのはあくまでも個物である。個物は感性的な直観の対象となるが、普遍者はそうはならない。普遍者は、それ自体として直観されることはない、というのが西洋哲学の伝統的な立場である。フッサールは、現象学の立場から、本質は直感されると考えたが、その考え方にはかなりの無理があると言わねばならない。フッサールの考えた直観の対象となるような本質とは、本質それ自体ではなく、個物と一体化した普遍者のようなものと考えられるのだ。だからフッサールは、普遍者を直感したつもりで、個物を見ていたということになる。

ところが、東洋においては、本質実在論の伝統があって、普遍的本質は実在すると考える。その実在の仕方には色々あるが、我々人間はそれを直観することができると考える。実在するものは、直観の対象となるからだ。しかし、その直感がどのような形をとるのか、西洋的な考えに染まった者には理解しがたい。その理解しがたいことを井筒は、本質実在論の立場に立って説明しているが、それを聞いてもなかなかピンと来ないところが多い。

物事について正確な議論をするためには、物事についての正確な定義が不可欠であることは、ソクラテスの指摘を待つまでもない。そこで本質について議論するにあたっても、本質について正確に定義することが求められる。本質とは何か、について正確に答えなければならない。本質実在論は、本質をどのように定義しているのか。

イスラーム神秘主義を例にとってみれば、本質に普遍的本質マーヒーヤと個体的本質フウィーヤと二つのものを認め、個体的本質の実在性をかなりあっさりと認める一方、普遍的本質についても、その実在性を認める。実在するのであるから当然直観の対象となる。もっとも、その直観は、多くの場合深層意識において行われるということになっているから、日常的な意味での感性的直観とはかなり異なっている。

そこで、その普遍的本質をどのように定義するかが問題となる。井筒は、その定義の仕方をいくつか紹介しながら、それらの定義に基づく本質がどのように直観されるかについて考察を進めている。だがあまりすっきりした印象は得られない。井筒の考え方というのは、本質の定義を構成しているさまざまな属性を、内的属性とか外的属性とか整理したうえで、それらを一つ一つ引き剥がしたうえで、絶対に引き剥がしえないもの、それを引き剥がすともはや本質ではなくなるようなもの、それを絶対的な本質、あるいは純粋本質と言うのであるが、ではその本質が具体的にどのようなものなのかは、明らかに示してはいない。それ故、それがどのようにして直観されるのかについても、明確にはならない。

井筒はまた、これもイスラーム哲学に依拠しながら、本質を「特殊的意味に解された本質」と「一般的意味に解された本質」とに区分けする。「特殊的意味に解された本質」とは、或るものが何であるかについて答えるもので、西洋的な本質概念に近い。一方「一般的意味に解された本質」は、イスラーム形而上学に特有のもので、「それが有るが故にあるものXがまさにそのものXであるもの、すなわちXのリアリティをさす」という。Xのリアリティが何を意味するのか、いまひとつ明確ではないが、リアリティというからには、実在性を含むのであろう。

ということは、少なくとも井筒が援用したイスラーム哲学においては、「一般的意味に解された本質」概念には、実在性というものが内的属性として含まれているわけである。これは、西洋の神秘主義における神の実在性をめぐる議論を想起させる。その議論は、神の定義には実在性が含まれているから、神は必然的に実在すると主張したわけだが、それと同じことを、井筒が援用したイスラーム哲学も主張しているように聞こえる。つまり、本質の定義にはリアリティすなわち実在性が含まれているので、本質が実在するのは必然だというわけである。実在するものは当然直観の対象となる。

井筒は、そういうつもりで本質直観を論じているのではないのだろうが、結果的にはそんな具合に陥っているようである。井筒は、「絶対純粋性における本質は直感されなければならない」という。その絶対純粋性における本質がどのようなもので、それが何故直観されなければならないのか、その理由がいまひとつ見えてこない。少なくとも、論理的ではない。


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