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井筒俊彦「意味の深みへ」を読む


井筒俊彦の小論集「意識の深みへ」の冒頭を飾る「人間存在の現代的状況と東洋哲学」は、グローバル化時代における異文化間のコミュニケーションの可能性について論じている。異文化間のコミュニケーションの問題は、いままでにもなかったわけではないが、それは局所的な問題にとどまっていた。ところがグローバル化が進んだ今日では全地球的な規模で問題となっている。というのも、グローバル化は全世界を巻き込む形で進行し、そこに地球社会とでもいうべき、いまだかつて存在していなかったものが現出するようになった。そういう段階においては、異文化間のコミュニケーションの問題は、全地球規模において生じるようになるわけである。それは、異文化間の差異を解消し、各文化を均一化させる方向へ進む傾向を持つ一方、異文化間に深刻な対立を生むようになる傾向もあわせ持つ。その対立は、全地球を巻き込んだ形で進まざるを得ないから、対立はある種の戦争状態をもたらすであろう。

井筒はこういう問題意識から、グローバル化時代の異文化間のコミュニケーションが、どういう方向で進むべきかを、井筒なりに考えているわけである。その場合井筒がもっとも重要だと考えるのは、西洋と東洋との関係である。西洋と東洋とは、ポパーのいう「文化的枠組」が基本的に異なっている。その異なった枠組は相互に反発しあい、クーンがいう「不可共約性」の関係にあるように見える。つまり西洋と東洋のそれぞれの文化的枠組は、相互に融合できず、反発しあうしかないというわけである。もしそうなら、地球社会における異文化間のコミュニケーションは原理的に不可能だということになる。だが、果たしてそうか。かならずしもそうではあるまい。西洋と東洋それぞれの文化的枠組は、あるレベルでは相互に融合し、そこからより高いレベルの文化的普遍者が生まれて来る可能性があるのではないか。そういう問題意識に基づいて井筒は、西洋と東洋の間の新しいコミュニケーションのあり方を模索するのである。

西洋と東洋との間の新しいコミュミケーションの可能性を考えるに先立って、西洋、東洋それぞれの「文化的枠組」の特徴を抑えておく必要がある。井筒は、西洋の文化的枠組みは、徹底的に意識の表層部分、つまり表層意識に基づいていると考える。近年になって、フロイトとかユングが深層意識を問題化するようになったが、それは学問の局所的な領域に限られた現象で、日常的な意識とか哲学的な議論においては、表層意識にもとづいた思考パターンが支配的である。それに対して東洋は、無論表層意識も重視するが、それと並んで深層意識も重視する。つまり東洋では、意識を深層意識だけにとどまる単層的なものと考えずに、表層意識と深層意識とからなる重層的なものと捉えている。

東洋には、インドの各思想学派に通じるヨガ、大乗仏教の止観、禅仏教の座禅、老荘の坐忘、宋代儒教の静座、イスラームの唱名、ユダヤ教の文字・数字観想など、深層意識に働きかけて、そこから意識の形而上的次元における特異な認識能力を活性化するような伝統がある。井筒の研究は、そうした認識能力を通じて、存在を多面的に考察することにささげられているわけだが、そうした東洋的なものの見方が、地球社会と呼ばれる今日においては、異文化間のコミュニケーションを考えるについて大きなヒントを与えてくれるのではないかと考えるのである。

西洋と東洋の間のコミュニケーションのあり方としては、無論別の方法も考えられる。それは西洋的な文化的枠組を全体の基準とするものだ。その枠組とは表層意識に基づいたものであるから、東洋にも通じる部分がある。それを仲立ちとすれば、西洋と東洋との融合が図られるかもしれない。しかしそれでは、西洋的な枠組を東洋に押し付ける結果となり、西洋的な枠組が地球全体を一様化する方向に働く。つまりある種の文化侵略のような事態が生じるわけだ。だがそれではよくない、と井筒は考える。西洋による一元的な統合と一様化ではなく、西洋と東洋とが各々いいところを生かしながら、互いに融合することで、あらたに高次な文化的枠組、文化的普遍者を生みだすのがのぞましい。そのためには、東洋の文化的枠組を最大限に生かすことが必要だ。

しかしそんなことが可能か。可能だと井筒は言う。西洋的な思考の先端を走っている現代自然科学において、まったく新しい存在観、存在感覚に裏付けられたまったく新しい世界像が提起されているが、そこでは意識と物質との本質的な峻別が無力化されているという。現代物理学においては、「事物の存在論的構造そのものに意識の積極的参加を認め・・・今までいわば固い凝結性において考えられていた物質的世界が、意識の内面からの参与によって、限りなく柔軟で、常に変転する出来事の相互連関の微妙な創造的プロセスとして見られるようになった」

ここで言及されている現代物理学とは、ハイゼンベルグの理論をさすのだと思われるが、そうした現代の理論においては、東洋的な世界像と酷似するものがある。ということは、西洋的な世界像と東洋的な世界像とのディアローグがすでに始まっているということだ。この傾向が今後ますます深まり、また広がって行けば、東洋的な文化的枠組と西洋的な世界観との融合が可能となり、そこから西洋と東洋をそれぞれ乗り越えた、より高次な文化的普遍者が生まれて来るに違いない。そう井筒は考えるのだが、果たしてそううまく運ぶかどうかは、井筒自身あまり確信はないようである。


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