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真言密教の言語哲学:井筒俊彦「意味の深みへ」を読む


「意味の深みへ」所収の小論「意味分節理論と空海」は、真言密教の言語哲学的可能性について論じたものだ。真言密教は、仏教の教派の中でも特異な言語哲学を有している、と井筒俊彦は言う。真言という言葉は「真の言葉」を意味する。その真の言葉が存在を生みだす。真の言葉とは究極的には大日如来のことである。大日如来は言葉として存在する。その大日如来が自己分節した結果我々の日常的な経験世界が生まれる。仏教の常識では、我々の日常的な経験世界は虚妄として、その実在性を否定されるのだが、真言密教においては、それは大日如来が法身説法したものとして実在性を持つ。この世界は大日如来が言葉として顕現したものなのだ。

このように真言密教は、存在を言葉によって基礎づけるところに特徴がある。同じような考え方をするものとして、井筒はイスラーム神秘主義者のファズル・ッ・ラーをあげる。ファズル・ッ・ラーは、神はそのまま言葉である、その神である言葉の組合せから世界は成り立っていると考える。また、ユダヤ教のカッバーラーは、神は言葉自体ではないが、神の創造への意思はまず言葉となってあらわれる,しかしてその言葉が世界を成りたたせていると考える。真言密教においては、神という表現は使わない。その代りに法身と言う。法身とは大日如来の別名のようなものだが、それが存在の究極的原点としての言葉なのである。

他の仏教諸派は、真言密教のようには考えない。存在の究極的原点は、言葉による分節以前の混沌とした状態にある。その混沌とした状態のものが分節することで個物とか具体的な現象が生じるのだが、その分節は言葉を通じてなされる。分節とは、混沌とした地からゲシュタルトとしての像を浮かび上がらせることをいうが、その場合、分節されたものには名前が付けられる。名前とは言葉である。つまり言葉は分節を遂行するための方便のようなものなのだ。それは人間の意識の働きによるもので、したがって実在性を有するものではない。実在するのはあくまでも混沌とした状態にあるものだ。その混沌に言葉を通じて分節の楔を入れることで、我々は世界を認識したつもりになっている、というのが大方の仏教諸派に共通した考え方である。

真言密教の中核思想を一言で言い現わせば、「存在はコトバである」ということになる。あらゆる存在者、あらゆるものがコトバである。これは普通の常識とは著しく反している。普通の常識では、コトバとはものの名であって、実在する存在者に外から付けられたにすぎない。したがってそれ自体実在性を主張できるものではないし、まして存在がコトバであるなどと、蒙昧な言い方というべきだ、ということになる。しかしこれは、存在の表象風景に過ぎないのであって、真相(深層)はそれとは違う、と真言密教は主張する。

他の仏教諸派同様真言密教も、意識の深層を重視する。しかし、他の仏教諸派が、意識の深層をコトバを超えたものと見なすのに対して、真言密教は、そこでもコトバが働いているとする。しかし、そのコトバは、表層意識によって思念されるような表層的なコトバではない。それは異次元のコトバとでもいうべきもので、表層的なコトバとは異なった様相を呈している。ともあれ、他の仏教諸派が、深層意識における言語脱落を主張するのに対して、真言密教は、「果分可説」の立場に立つ。「果分可説」とは、深層意識の世界もコトバによって語ることができるという意味である。

では、その異次元のコトバとはどのようなものか。異次元のコトバといっても、普通の人間言語と似ても似つかぬ記号組織というわけではない。普通の人間言語が、そこから自然に展開してくるような根源言語として、空海は構想していると井筒は言う。深層意識にある根源言語とは、普通の人間言語、つまり表層的な言語のような明確な分節はなされていない。普通の人間言語においては、個々のコトバは他のコトバとの関係において、明確に差別された意味を持つ。一つの対象について一つのコトバが対応するようになっていて、そのコトバの意味は常に自己同一的な内容を持つ。これに対して根源言語には、そのように明確に差別化された分節は働いていない。言葉と意味とはまだ一義的に結びついてはおらず、ソシュールの言葉で言うシニフィエとシニフィアンとは流動的な関係の状態にある。ある事物はまだそれに対応する言葉を与えられていない。そのような状態におけるコトバを、井筒は根源言語と表現しているわけだ。

こうした根源言語における、シニフィエとシニフィアンが、それぞれ結びつき、そこに一義的な意味が生じることで、普通の人間言語が成立してくる。したがって、根源言語は、普通の人間言語が生じてくるための母胎となるようなものだ。その母胎から、普通の人間言語が展開してくると空海は構想しているわけだ。

ともあれ、真言密教が想定する深層意識においては、既成の意味というものは一つもないと井筒は言う。「時々刻々に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きのとれない既成の意味であったものさえ、ここでは概念性の留め金を抜かれて浮遊状態になり、まるで一瞬一瞬に形姿を変えるアミーバのように延び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとしてあらわれてくる」。この混沌とした状態にあっても、言語エネルギーともいうべきものが働いている。それを井筒の理解する真言密教は大日如来というわけである。

こうした深層意識の世界を語る井筒は、ある人々にとってはなかなか理解できないかもしれない。小生も井筒の言説には腑に落ちないところが多々ある。井筒もそのことは理解していて、自分の言うことは空想のように聞こえるかもしれないが、「しかし、ある種の人びとにとっては、これはまさしく生きた実在感覚なのである」と言っている。井筒自身もその実在感覚を味わったのだろう。そう考えないと、井筒の言説は全くの妄想ということになる。


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