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井筒俊彦のデリダ論その二:エクリチュールについて


エクリチュール(écriture)は、解体(déconstruction)や相異=相移(differance)とともにデリダの思想の中核的な概念である。だがデリダは、この重要な概念を定義しようとしない。定義された術語は、たちどころに硬化して、もはや自由な読み替えが出来なくなってしまうからだ。エクリチュールという述語はだから、明確でかつ固定した内容を持たない。それには不分明性、不定性、曖昧さが纏綿する。そこがデリダの狙いでもある。井筒はそう言って、エクリチュールという述語を、多面的な見地から考察する。

エクリチュールというと、われわれ日本人には大袈裟に聞こえるが、要するに「書く」ということだ、と井筒は言う。エクリチュールを論じた小論の題名を井筒は「書く」と題しているのである。「書く」の反対は「話す」で、この二つの述語の対立関係については、小論の後半部分で触れられている。そこでは、西洋哲学の伝統にあっては、プラトンの「パイドロス」以来、エクリチュールにパロールが優越してきたが、デリダはその関係を逆転させて、エクリチュールをパロールに優先させた、というより、パロールを程度の低いエクリチュールだと喝破した、と言っている。

ともあれ、エクリチュールは「書く」ことをとりあえず意味する。デリダは、この「ありきたりの語のありきたりの意味を、異常に歪曲し、拡張して」使うと井筒は言う。こういう傾向は、デリダにとどまらず、ロラン・バルトにしてもラカンにしてもそうなのだが、デリダの場合にはひときわ極端ということらしい。

では、デリダは「エクリチュール(書く)」という語を、どのように歪曲し、拡張して使っているのか。「簡単に言ってしまえば、人は存在するという、まさにそのことによって『書』いているのである」。というより、人間が生きているというのは、「書く」ことと同義なのである。我々人間は、生きることを通じてせっせと書いている。生きることは書くことである。我々の人生とか、我々を取囲む世界とかの「現実」は、書かれたものとしての「テクスト」であり、我々が存在することは「テクストの織り出し」といえる。

「現実」を「テクスト」などというと、現実の見え方が違ってくるように見える。そこがデリダの狙いだと井筒は言う。「今まで使い古されて擦り切れてしまった」語によって漠然と指示されてきた事態が、『テクスト』と読み替えて提示されるとき、この新しい語の内蔵する意味可能性の傾向線にそって、思いもかけぬ姿を、先鋭に露呈する」というのである。要するに、言葉を読み替えることによって、世界がいままでとは違って見えるというわけである。

「存在」とか「生」とかいえば済むものを、わざわざ「エクリチュール」とか「テクスト」と言い換えるのは、世界を今までとは違った視点から見たいというデリダの戦略に基づくものだ、と井筒は言うのだ。なぜそんな戦略をたてるかというと、それは西洋的なものの考え方を「解体」したいからだろう。デリダとしては、単に解体するにとどまらず、まったく新しい世界観を創出しようと意欲してもいるのだと思うのだが、その意欲はとりあえず意欲にとどまって、解体の作業ばかりが、読者の目には映る。だから、デリダは解体の思想家という位置づけになり、その点ではニーチェの追随者ということになるのだろう。

「エクリチュール」にせよ「テクスト」にせよ、言語にかかわる語だ。だからこれらの語の内実に関する議論は、言語学的なものになる。井筒はデリダの展開するその議論を、ソシュールの構造主義的言語学に依拠しながら批評する。井筒がとくに援用するのは「能記」、「所記」、「指示対象」といった語だ。これらはある一つの対象に着目した場合に、密接不可分に結びついている。能記とは対象をあらわす言葉であり、所記とは対象の意味内容であり、指示対象とは言及されている対象そのものである、という具合に。

ところがデリダの「エクリチュール」論にあっては、上述の関係にひびが入って来る。この三者の結びつきは、かならずしも密接不可分ではないのだ。我々常識的な人間にとって、日常的経験世界は、上述の三者の結びつきを前提としている。ある対象について、その所記と能記とは、指示対象をめぐって深く結び付いている、と考えている。しかしかならずしもそうではないとデリダは言う。日常的な意識の上では、能記と所記とはがっちりと結びついて見えるが、それは表層意識の働きによるもので、深層意識においては、能記と所記とはバラバラなかたちで浮遊していると考えたほうが都合がよい、と考えるのだ。

そういう考え方は、井筒によれば東洋思想に普通に見られるものだ。東洋思想では、「荘子のように、『存在』を『夢』と読みかえ、ナーガールジュナのように一切を『空』に還元し、禅のように経験的世界の極限的堺位を『無一物』と見るならば、すべての現象的世界、すなわちすべての『指示対象』の実在性は、一挙に、全面的に、否定されてしまう」

デリダは、そういう極端には走らない。日常的経験世界を構成する客観的なものの実在性を素朴に否定するようなことはしない。デリダは、井筒によれば、もっと屈曲した形で否定する。「現前性の繰り延べ」と言う形でだ。「現前性の繰り延べ」とは、「相異=相移」のかかわることがらで、その内容については前稿で述べたから、ここでは繰り返さない。ただ、能記と所記との結びつきが、いつまでたっても安定しない事態だとばかり言っておきたい。つまり、言葉にとっての究極的な意味が、いつまでも確定しない事態をあらわしている。それは、ものの本体が見えずに、その痕跡だけが見えるといった事態を意味している。世界は、ものの痕跡から成り立っているというのが、デリダの思想のエッセンスである。

ここで「エクリチュール」と「パロール」の関係にもどろう。「パイドロス」以来、西洋哲学は「エクリチュール」よりも「パロール」を優位に置いて考えて来た。本源的な言葉は「パロール」であって、「エクリチュール」はそれのコピーのようなものだとする考えが長らく西洋哲学を支配してきたのである。これに対してデリダは、エクリチュールの優位を主張する。その理屈は次のようなものだ。

「エクリチュール」は書かれた言葉であるから、空間的な要素を持っている。これに対して「パロール」は語られた言葉であり、音の継起からなっている。ということは時間的な要素を持っているということだ。音は発せられるその先から消滅していく。ある言葉、たとえばABCDという言葉を発したとき、ABCDと一音ずつ進めてDに至った時、残りの三つの音はすでに消えて存在していない。にも拘わらず我々は、ABCDという一単位の言葉を認知することができる。それは、Dという音を発したときに、残りのABCはいまだ消滅していないからだといえる。消滅しないで残っていたからこそ、我々はABCDという言葉を認知できる。そのことは、ABCDという言葉に、空間的な要素があるからだとデリダは考えた。その空間性は「エクリチュール」に固有のものであった。だから、「パロール」に空間性があるということは、「パロール」に「エクリチュール」が含まれていることを意味し、それは「エクリチュール」が「パロール」に先立っていることを意味する。そのような意味での「エクリチュール」をデリダは、「原エクリチュール」と呼ぶ。そして、その「原エクリチュール」こそ、根源的な言語だとするのである。




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