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道元の時間論:井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」


井筒俊彦の著書「コスモスとアンチコスモス」の第二論文「創造不断」は、道元の時間論をテーマとする。道元の時間論といっても、道元だけに特有の時間論ではない。道元を含めた東洋思想に共通する時間論の特徴を明らかにしようとするものだ。東洋的な時間論の特徴を井筒は、時間を切れ目なく連続した流れとしてではなく、瞬間ごとに断続していると見るところに求める。西洋では、絶対時間といって、事物の存在とは別に純粋な時間の流れがあって、それが絶え間なく続いて行くと見るわけだが、東洋の時間意識はそれとは真逆で、純粋な時間というものはなく、時間と事物の存在は別物ではない、と見る。そしてその時間は、連続して流れていくものではなく、瞬間ごとに新たに生み出されるのだと考える。そうした時間についての考えを井筒は、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概念に代表させ、その概念を用いて道元の時間論を考究するのである。

「創造不断」はアラビア語で「ハルク・ジャディード」という言葉の訳だが、字義通りに訳せば「新しい創造」とか「新創造」という言葉になる。どういうことかというと、時間というものは切れ目なく流れているものではなく、「時々刻々に新しく創造」されているものだとする。時間は連続しているのではなく、途切れ途切れの、独立した時間単位(刹那)の連鎖からなる。「時間は、その真相において、一つひとつが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である、というのだ」

そうした断続した、非連続の時間は、存在と密接不離の関係にある。西洋思想のように、時間はそれ自体が独立したもので、つまり絶対時間というものがあって、その中を事物が存在するという考えはとらない。西洋の絶対時間の考えは、空間にも応用されて、絶対空間という概念が生み出される。西洋思想では、絶対的な時空概念が支配的だったのである。これに対して「創造不断」の考えにおいては、時(時間)と有(事物の存在)は究極的には同じものとされる。時が時々刻々と新たに創造されるのと同時的に、有も時々刻々と創造される。そのような創造を井筒は「念々起滅」と名づけている。時間も事物も「念々起滅」しながら、その都度時々刻々と新たに創造されていると考えるのである。

したがって「時々刻々の新創造」は、時々刻々の新しい世界現出を意味する。「つまり、時々刻々の念々起滅とともに有の念々起滅が現成し、刻々に新しい世界が、いつも新しく始まる。始まっては終り、終わってはまた新しく始まっていく、というのである」

ところで、イブヌ・ル・アラビーの哲学は、イスラーム教に立脚しているから、当然イスラームの神による世界創造ということを無視するわけにはいかない。そこでアラビーは、時々刻々に新たに創造される事態、時と有にまたがる念々起滅の主体として神を指定する。つまり、この世界は、神によって絶えず新たに創造されているとするわけである。

以上が、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概要だが、その創造不断の概念を井筒は、道元にも適用して、道元の時間概念や存在概念が、アラビーを代表とする東洋哲学の考え方と通底しあっているということを証明しようとするのである。

道元も又、時間が連続した流れではなく、瞬間ごとに断続したものであること、その瞬間ごとにおいて、時間(時)と存在(有)とは別物ではなく同じものであること、それを道元は「有時(うじ)」と呼んだが、言葉はともかく、考え方の実質はイブヌ・ル・アラビーとほとんど同じである。というか、イブヌ・ル・アラビーをその一つの例とする東洋思想の時空についての根本的な考え方を共有しているということである。そこでイブヌ・ル・アラビーの神に相当するものが問題となるわけだが、神を持ち出さないとすれば、その選択肢は二つある。一つは神に相当するが、それとは違うものを神の地位に据えること、もう一つは、そもそも神なしですませることである。道元は、前者を選択した。といっても、道元自身にはイブヌ・ル・アラビーの説についての認識はないから、井筒がそう捉えたということである。

道元が、神のかわりに持ち出すのは「我」だと井筒は言う。「我」の一念によって、時間と存在からなる世界が、時々刻々と新しく創造されていくと考えるわけである。そこで、この「我」がどのようなものかが問題となるが、道元はこの我を個別の人間と関連付けるわけではなく、個別の人間を超越した巨大な「我」として構想する。巨大な「我」といってもなかなかイメージがわかないが、どうやら道元は、密教の大日如来に相当するようなものをイメージしている可能性はある。道元は禅者であって密教とは無縁のようにも思えるが、密教の大日如来が、人間の意識の最深層における存在の究極的根拠をあらわしているとしたら、道元が存在の究極的根拠を、大日如来のようなものとしてイメージすることに不思議はない。

禅の基本的な考えは、我々の日常意識に現われる世界は虚妄だとするものである。真実の存在は我々の深層意識によってしかとらえられない。それにはひたすら座禅する必要がある。その結果とらえた真実在こそ、究極の存在である。我々はその究極の存在と一体化・同化することで、涅槃の境地に達することができる。禅者はそう考える。道元も当然そう考えるのだと思うのだが、だからといって、世界の存在性について、全く無関心だというわけではない。道元は道元なりに、世界の存在のあり方について、思索を巡らせたのである。その道元の、世界のあり方についての思索は、先ほども触れた「有時(うじ)」の思想に集約されている。

「有時」の思想は、「正法眼蔵」の一節の中で展開されているが、その要旨は、有(存在)と時(時間)は別物ではなく、同じものを意味しているというものである。時間から切り離された存在があるわけではなく、存在を離れた時間があるわけでもない。存在のあり方それ自体が時間そのものなのだ。存在は時間と切り離してはありえない。存在とは時間としての存在なのだ。これが「有時」という言葉に道元が込めた意味である。

その「有時」としての時空が、あるいは時空としてあらわれる世界が、時々刻々と新たに創造されると考える点では、道元はイブヌ・ル・アラビーと共通した思考パターンに従っているということになる。それをアラビーは、「創造不断」という言葉で表現したが、道元は「有時経歴(うじきょうりゃく)」という言葉で表現する。「有時経歴」とは、「有時」としての世界が時々刻々と創造される事態を言い現わしているのである。

そこで、この「有時経歴」が、人間の意識のどのレベルに対応しているかが問題となる。井筒は明示していないが、当然深層意識のレベルで起こることなのだろう。深層レベルでは、事物と事物を隔てる境界線は取り除かれて、あらゆるものが渾然一体と化す。世界は分節されたあり方ではなく、無分節の状態で、しかも一気に全体があらわれる。その全体のイメージは、あらゆる分節に先立つ混沌としたものであり、時空もまた分節以前である。時空は、混沌が分節されることで初めて現出するものなのだ。あたかも聖書が、世界の始めに光を分節したのと同じように。

道元も又、意識の最深層に起こる事態として、「有時経歴」を考えていたに違いないのである。




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