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コスモス・カオス・アンチコスモス


井筒俊彦の論文集「コスモスとアンチコスモス」のうち、同じタイトルを冠した小論「コスモスとアンチコスモス」は、コスモスとカオスの対立について論じたものである。コスモスというのは、井筒の定義によれば、「有意味的存在秩序」を意味する。有意味的存在秩序というのは、世界を存在者の意味のある秩序としてとらえることを意味している。世界の無数の存在が、それらの意味単位が、「一つの調和ある全体の中に配置され構造的に組みこまれることによって成立する存在秩序、それを『コスモス』と呼ぶのである」、と井筒はいうのである。どの民族にもそれ固有のコスモスがある。このコスモスがあるおかげで、当該コスモスの中に生きている人々は安心して生きることができる。これに対してカオスとは、そうした秩序が全くない混沌として受け取られて来た。その混沌は、とりあえずは、コスモスが成立する以前の状態をさすのが普通だった。というか歴史的な事実だった。世界は混沌から秩序へ、カオスからコスモスへ向かって進む、というのが、どの民族においても、歴史的な(あるいは神話的な)趨勢だったわけだ。

だがカオスには、コスモス以前の混沌を意味する場合のほか、コスモスが成立して以降、そのコスモスを混乱させるようなものもある。現代社会においては、むしろこうした意味あいのカオスの方が重要性を持つ。そういう意味合いのカオスは、コスモスが何らかの事情で正常に機能しなくなり、その結果一時的に起こる混乱をさすことが多いが、したがって人為的というよりは自然的といった方がふさわしい場合が多いのだが、なかには人為的に、あるいは意図的に引き起こされる場合もある。なぜそうなるのか。井筒は、人間には秩序を求める傾向と並んで、破壊を求める傾向もあり、そうした傾向が現存する秩序を堪え難い桎梏と強く感じるようになった場合に、カオスを引き起こそうとする人為的な力が働くのだという。現代のヨーロッパはちょうどそういう動きが強まっている時期であり、ポストモダンといった思想潮流が、意図的にカオスの現出を試みている。デリダの存在解体はその最たるものだ、と井筒はいうのである。

井筒によれば、西欧でカオスを追求する動きが出て来たのは、ニーチェ以降だという。ニーチェは、神は死んだと言って、既成秩序の無効性を唱えた。キリスト教の神は、西洋的なコスモスを基盤として支えてきたものであるから、それが無効になったということは、既存のコスモスが崩壊したということを意味する。ニーチェはつまり、西洋的なコスモスの全面的な崩壊と、それによるカオスの到来を主張したわけである。こうしたニーチェの思想は、その後実存主義哲学などに影響を与えもしたが、その範囲は限られていたといってよい。西洋的なコスモスはそう簡単には崩壊しないと、大多数の人には受け取られていたのである。そのコスモスへの挑戦が本格化したのは、ポストモダン以降であると井筒は見る。さきほど触れたデリダの存在解体の理論とか、ドルーズ・ガタリのリゾーム理論などは、その先鋭部分をなす。

こういう意味でのカオスを、井筒はコスモスの否定、あるいはそれへの挑戦という意味合いで、アンチコスモスと名づける。現代社会は、そのアンチコスモスによるコスモスへの挑戦あるいは否定が広範な動きとして強まっている時代だ、というのが井筒の基本的な認識である。なぜ現代の西欧社会にそのような動きが強まったのか、その原因なり背景について、井筒はくわしく分析することはしない。ただ人間の中にあるコスモスに反発する傾向が、現代社会ではたまたま高まりを見せている、というふうに認識しているようである。

東洋にもコスモスとカオスの対立はある。しかしその位相が西洋とはまったく逆である、と井筒はいう。西洋では、コスモスがプラス、カオスはマイナスと捉えられていたのに対して、東洋ではその逆に、コスモスつまり秩序はマイナス、カオスつまり混沌はプラスというふうにとらえられて来た。東洋では、秩序付けられた我々の経験世界は仮象であって、真実在は空あるいは無だとする考えが根強い。荘子はいわゆる現実世界は夢のなかの出来事と同じであるといい、イスラム神秘主義は幻想だといい、ヴェーダーンタ哲学は幻だという。真実在は、そうした経験的な認識では得られないのであって、人間の意識の深層部分で見られる分節以前の混沌としたカオスのようなもののうちにある、と考えた。人間の経験的な認識は、そのカオスが自己分節することであらわれるというのである。

このカオスのことを無とか空とかいう。「西洋思想では、『有』の論理的否定としての『無』ではない『無』(つまりいわゆる東洋的『無』)は、多くの場合『虚無』として体験され、『死』を意味します。ところが東洋では、『無』こそ生命の根源であり、存在の根源であって、『有』がかえって『死』なのです」。井筒はこういって、東洋思想がそもそも「無」優先の考え方に立っていることを強調している。井筒はこうした東洋思想を横断的に究明し、西洋思想に対する東洋思想の基本的な特徴とその優位性を追求してきたわけだが、そうした東洋思想の優位性を、いち早くカオスとしてのアンチコスモスに着目し、それに大きな意義を認めて来たことに求めている。西洋思想が最近になってやっと取り組み始めたことに、東洋思想はずっと昔から取り組んでおり、したがって思想的な蓄積も多いだろうから、現在こそ東洋思想の出番が来たというふうに井筒は思っているようである。

そこで、東洋思想はどのような点で、これからの人間社会のあり方に貢献できるのか、そこが問題となる。というのも、そういう貢献ができなければ、東洋思想の特徴を云々する理由はないだろうからである。井筒としては、西洋思想の基本的な特徴であるロゴス中心主義には限界があり、その限界を東洋思想が乗り越える鍵を持っている、というふうに考えているようである。ロゴス中心主義とは、言葉によって現実を分節し、論理的に世界を理解しようとする態度をいうが、世界には、論理的に割り切れぬものが多くある。これまでの西洋思想は、そういうものを切り捨てて、コスモスを脅かすもの、つまりアンチコスモスを抑圧するためにノモスを立てて来たのだったが、ノモスは秩序を与える一方、人間を閉塞させる効果も持つ。そういう閉塞は人間の可能性を抑圧する働きをする。そういう抑圧を排除して、新たな可能性を求めるためには、やはりアンチコスモス的なスタンスは必要なのであり、そうした必要性に東洋哲学は応えるものを持っている。

こんな理由から井筒は、今後の人類は、その可能性を拡大するためにも、東洋思想の考え方を広く深く取り入れていくべきだと考えているように見える。その際井筒が考えている方向性は、東洋思想のパラダイムこそが全体の枠組みを決定すべきであって、西洋思想のロゴス中心主義は、その一部に組み入れられるべきであるとするもののようである。東洋こそが普遍であって、西洋は特殊である、そう井筒は言いたいようだ。だから今後の人類は、もっと意識的に東洋的なものの見方・考え方を取り入れ、世界を複合的にとらえる努力をしなければならない、というわけなのだろう。




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